- 肴 -
大吾(SS)
東城会本部の敷地内に広い庭があるのはご存知だろうか。
管理費は馬鹿にならないが、繋がる大広間から見渡せば四季折々の景色を楽しむことができる自慢の庭だ。
一番の見どころは、その面積の半分を占めるほど大きな池。
石橋に繋がれた中島、そよ風に揺らぎ煌めく水面と気ままに泳ぐ美しい鱗の錦鯉。そして池畔に植えられた見事な松は、正に淑やかな古き良き日本庭園を体現している。
昼間はもちろんのこと、夜間もまた素晴らしいもので各所へ設置されたライトが点灯し、光と影が折り重なる厳かな佇まいへと一変するのだ。
本部内に足を踏み入れたことのある者ならば、少なくとも一度くらいは見る機会があっただろう。特に説明する必要もなかったが、こういうものは前振りが重要なのでご勘弁を。
今から話すのは、この池にまつわる曰くについてなのである。
先代の折、と言っても何代目なのか、そもそも本当のことかどうかも知らないが、あの池へ始末した組員の亡骸を投げ入れたことがあったらしい。
始末の理由は特に言及されなかった。敢えて考察するとしたら、自分の失態に対するけじめか、あるいは見せしめか。そんなものだろう。
とにかく、投げ入れられたそれは大きな水しぶきを上げたあと、背を上にぷかりと浮かんだ。胸から腹へ一文字に走る刀傷からは血が流れ出て水を汚す。
池で飼われている鯉たちは、突然のことに一度は驚いて散り散りに逃げ惑った。ところがすぐに、血生臭いそれに誘われたのか一匹また一匹と群れを成す。
なびく尾びれが水を打つ。もう声も出せぬ身体とは対照に、絶え間なく鳴り響く耳障りな水音。
飛び散る飛沫に周囲の水は瞬く間に赤く染まり、紅白の美しい鯉の鱗は紅一色に見えたそうだ。
死してなおぞんざいに扱われ、生物の餌として内を破られる屈辱、その遺恨がこの池の底に渦巻いている。
昼間にはその気配すら感じさせない悠然とした様子だが、夜が深まる頃になれば重く湿った空気が漂う。
そして清らかだった池の水は、闇の中でも判別できるほど赤黒く淀み、その時もしも池の淵を覗くようなことがあれば"そこ"へと引きずり込まれてしまうだろう。
これは先日会食の折、噂好きな年増のお偉方から余興にと、いかにも真実らしく囁かれた話だ。
こんな話は誰からも聞いたことがなかった。会長になって日の浅い自分が知らないだけかとも思ったが、こういった話の大半はデマだと知っている。
学校の七不思議が良い例で、危険な場所に寄せ付けないための脅しとして使われることがほとんどなのだ。これも深夜の池は暗く、ただでさえ悪い足元の中落ちてはいけないと、その程度の意味しか持たない与太話だと考えることにした。
余所事ではない話を笑い飛ばすことはできなかったが、お偉方の狙い通り賑やかしには一役買ったようだった。その後の会食も大いに盛り上がり、酒も良くすすんだ。
さて、日付は変わってある夏の日。
その日は議題が立て込み、会議終了の頃には夜も深まり外はすっかり闇に飲まれていたのをよく覚えている。
長らく座ったままで凝り固まった身体を解していたとき、たまたま見た窓から庭園が見下ろせることに気がついた。そこでふとあの時の話を思い出し、面白半分で照明が反射する水面を見つめた。
それが始まりだった。今思えば疲労で目が霞んでいただけかもしれないし、思い過ごしだった可能性も捨てきれない。
しかし、その時は確かに光に照らされた池の淵が、赤らんで見えたのだ。
咄嗟に目を逸らし、固く瞑った目頭をぎゅっと摘んだ。それからもう一度見てみたが、平常の庭園のようにも、どことなく重苦しい空気を纏っているようにも感じられた。
遠くから見ていては何も分からないと思った俺は、庭園へ向かって足を踏み出した。
「大吾、どうした?この後予定でもあんのか?」
随分と冷静さを欠いていたらしく、声をかけられるまで、前方から柏木さんが歩いてくることすら気が付かなかった。
咄嗟に曖昧な返事をした俺に、柏木さんは怪訝な表情を浮かべている。
そういえば、顔を見て思い出したが、あの席には柏木さんも同席していた。よりこの世界が長い彼なら、何か知っていてもおかしくない。そう考え、思い切って聞いてみることにした。
「柏木さん、会食のとき聞かされた噂話覚えてますか?」
「噂?……あぁ、池がどうのってやつか?」
「はい、それです…あの、あれって本当のことなんですか?」
急に尋ねられた柏木さんはきっと戸惑ったと思う。そりゃあそうだろう。
賑やかしのための話を大の大人が、曲がりなりにも大組織の会長が本気にする素振りを見せるなど。
「少なくとも俺は、あそこで初めて聞いたが…何かあったのか?」
「いえ、その…」
池が赤く見えたんです。なんて馬鹿馬鹿しいんだと自分でも思ったが、せき止める前に口をついて出ていた。
しまった、と思うがもう遅い。瞬間、柏木さんの目がキュッと細まり、眉間に皺が寄る。言わずとも表情から、くだらないことを言うなと叱責されていた。
「んなわけがあるか」
「俺もそう思いたいですけど、でも、」
「会議続きで疲れてんだろ、早く帰って休め」
「……一緒に、見に行ってくれませんか?」
「…何言ってんだ、」
「か、柏木さんは組の事務所があるからいいですよ!でも俺は、ここで、仕事してるんです!直接見てみないことには、」
大方無いだろうが、もし何かあった時のために一人で行くよりは人手があった方が良いと思った。
こんなことを他の組員に頼むのは憚られる。柏木さんも大概乗り気ではなさそうだが、でもきっと来てくれる。そういう確信が俺にはあった。
「あぁ…分かった分かった!一目確かめりゃ気が済むんだな?」
「…はい!」
「しょうがねぇな…少し様子見たらすぐ帰るぞ」
柏木さんはうんざりとした顔でため息をついていたが、俺はこの素っ気なくも面倒見の良い物言いにほっとする。
ガキの頃にもこうして、無理言って付き合わせたことが何度もあった。月日が経ち、こんな大男になっても尚、変わらず自分のわがままを聞きいれてもらえることが嬉しかった。普段から感じてはいるがこういう時は特に、俺は多くの人に支えられて生きてきたんだと感じる。
…話を戻そう。というわけで、俺と柏木さんは揃って庭へと赴いた。
深夜でもまだ熱が残り外はかなり蒸し暑く、ジャケットを脱いできて正解だと思った。
噂では確か"重く湿った空気が"とか何だの言っていたが、夏本番の気候とそれの判別が誰に出来ると言うのだろうか。
「いつもと変わりなく見えるがな…」
「ちょっと近くで見てきます」
「あ、おい、気をつけろよ!」
柏木さんを長く付き合わせるのは悪いと思った俺は、忠告も聞かず池の淵まで小走りで向かった。
そこから池を眺めるが、特に昼間と変わった様子はない。照明が当たらない部分は影になっているからか、黒く淀んでいるようにも見える。それでも、異変というにはほど遠い。
やはりただの与太話だったかと安堵のため息をつく。同時に両膝へ手をつき前かがみになったその時、池の淵に自分の顔が映った。
目を疑う。というより、信じられる訳がなかった。
池に映る顔が、池の底から伸びるニ本の手に掴まれている。ギリギリと爪が食い込む。視覚とは相反して、痛みは感じなかった。
傷の付いた頬から、眼窩から、流れ出たそれが黒々と影をたたえる水面に漂う。匂いにでも誘われたのか鯉が群がり、尾ひれが水を打ち上げた。
身体は動かそうにも指一本動かない。ただ鯉の鱗だけが光を照り返し、煌めいているのを見つめるしかなかった。
煩い水音と共に飛沫が散り、池の水が染まって、それで──
気がついたときには、俺は大広間の縁側に寝かされていた。
「大吾、大丈夫か?やっぱお前、相当疲れてたんだろ」
隣には柏木さんが座っていて、目を開けた俺に声をかけた。
スーツを折り目正しく着ていたはずの柏木さんは、ジャケットを脱ぎ、ネクタイも外している。皺ひとつなかったシャツは胸元のボタンがくつろげられ、袖も捲られていた。
珍しいその装いをぼんやりと眺めていると、次第に意識が輪郭を帯びていく。途端、先ほど見たものが頭に浮かび、俺は上体を勢いよく起こした。
「…っ、かお!俺の顔、どうなってます!?」
「顔?別に、いつもと変わらんが…いや、顔色は悪いな」
言われた俺は自分の顔を手で触って確かめたが、確かに怪我をしている様子はない。頬に、汗ばんだ手のひらがひたひたと張り付くだけだった。
「ほらよ、」
手渡された小さな鏡を覗き込むと、青い顔をしているものの概ねいつも通りの顔が映っている。
違うところといえば、後ろに撫でつけていたはずの髪が束になって額に数本落ちていた。触れればそれはじっとりと濡れており、そのせいで崩れたのだとすぐに分かった。
「お前、池覗いたと思ったら前のめりに倒れて顔面から突っ込んだんだぞ」
「えっ、」
「ったく、こんなデカい図体運ぶ方の身にもなってくれ。お陰で明日は全身筋肉痛決定だ」
そう言われて見てみれば、シャツの首元や胸元も濡れていた。気温の高さが幸いして寒さは感じないが、肌に張り付く布地が煩わしい。
無理をさせてしまったことを申し訳なく思っていると、突然柏木さんが鼻を鳴らして笑った。
「鯉が群がってて噂みてぇだったがな、あいつらなんでも口に入れやがる」
言いながら、柏木さんはいかにも暑そうな様子でシャツの胸元を引っ張り、バサバサと空気を送った。
しなだれた前髪が風に揺れて、こめかみからは一筋の汗が伝う。捲った袖口で首元の汗を拭い、それにしてもあちぃなと笑った柏木さんを見て、俺も引き攣った頬で笑いを返した。
そのあとは大方予想ができると思うが、俺は体調を危惧した柏木さんによって早々に帰された。
休みでももらえるかと期待したもののそこまで甘くはなく、翌日も引き続き仕事は山積みだった。ちなみに柏木さんは、宣言通り筋肉痛に悩まされたらしい。
俺が見たものは結局、柏木さんには話していない。話したところで、更に呆れられるのが目に見えているからだ。
それでも俺は、あれから昼夜を問わず池にはなるべく近寄らないようにしている。
水面が揺らめき、鯉の鱗が光る度に隣合った底知れぬ闇を思い返してしまう。
美しく見えていたそれが今は、ただ恐ろしくてしょうがない。
東城会本部の敷地内に広い庭があるのはご存知だろうか。
管理費は馬鹿にならないが、繋がる大広間から見渡せば四季折々の景色を楽しむことができる自慢の庭だ。
一番の見どころは、その面積の半分を占めるほど大きな池。
石橋に繋がれた中島、そよ風に揺らぎ煌めく水面と気ままに泳ぐ美しい鱗の錦鯉。そして池畔に植えられた見事な松は、正に淑やかな古き良き日本庭園を体現している。
昼間はもちろんのこと、夜間もまた素晴らしいもので各所へ設置されたライトが点灯し、光と影が折り重なる厳かな佇まいへと一変するのだ。
本部内に足を踏み入れたことのある者ならば、少なくとも一度くらいは見る機会があっただろう。特に説明する必要もなかったが、こういうものは前振りが重要なのでご勘弁を。
今から話すのは、この池にまつわる曰くについてなのである。
先代の折、と言っても何代目なのか、そもそも本当のことかどうかも知らないが、あの池へ始末した組員の亡骸を投げ入れたことがあったらしい。
始末の理由は特に言及されなかった。敢えて考察するとしたら、自分の失態に対するけじめか、あるいは見せしめか。そんなものだろう。
とにかく、投げ入れられたそれは大きな水しぶきを上げたあと、背を上にぷかりと浮かんだ。胸から腹へ一文字に走る刀傷からは血が流れ出て水を汚す。
池で飼われている鯉たちは、突然のことに一度は驚いて散り散りに逃げ惑った。ところがすぐに、血生臭いそれに誘われたのか一匹また一匹と群れを成す。
なびく尾びれが水を打つ。もう声も出せぬ身体とは対照に、絶え間なく鳴り響く耳障りな水音。
飛び散る飛沫に周囲の水は瞬く間に赤く染まり、紅白の美しい鯉の鱗は紅一色に見えたそうだ。
死してなおぞんざいに扱われ、生物の餌として内を破られる屈辱、その遺恨がこの池の底に渦巻いている。
昼間にはその気配すら感じさせない悠然とした様子だが、夜が深まる頃になれば重く湿った空気が漂う。
そして清らかだった池の水は、闇の中でも判別できるほど赤黒く淀み、その時もしも池の淵を覗くようなことがあれば"そこ"へと引きずり込まれてしまうだろう。
これは先日会食の折、噂好きな年増のお偉方から余興にと、いかにも真実らしく囁かれた話だ。
こんな話は誰からも聞いたことがなかった。会長になって日の浅い自分が知らないだけかとも思ったが、こういった話の大半はデマだと知っている。
学校の七不思議が良い例で、危険な場所に寄せ付けないための脅しとして使われることがほとんどなのだ。これも深夜の池は暗く、ただでさえ悪い足元の中落ちてはいけないと、その程度の意味しか持たない与太話だと考えることにした。
余所事ではない話を笑い飛ばすことはできなかったが、お偉方の狙い通り賑やかしには一役買ったようだった。その後の会食も大いに盛り上がり、酒も良くすすんだ。
さて、日付は変わってある夏の日。
その日は議題が立て込み、会議終了の頃には夜も深まり外はすっかり闇に飲まれていたのをよく覚えている。
長らく座ったままで凝り固まった身体を解していたとき、たまたま見た窓から庭園が見下ろせることに気がついた。そこでふとあの時の話を思い出し、面白半分で照明が反射する水面を見つめた。
それが始まりだった。今思えば疲労で目が霞んでいただけかもしれないし、思い過ごしだった可能性も捨てきれない。
しかし、その時は確かに光に照らされた池の淵が、赤らんで見えたのだ。
咄嗟に目を逸らし、固く瞑った目頭をぎゅっと摘んだ。それからもう一度見てみたが、平常の庭園のようにも、どことなく重苦しい空気を纏っているようにも感じられた。
遠くから見ていては何も分からないと思った俺は、庭園へ向かって足を踏み出した。
「大吾、どうした?この後予定でもあんのか?」
随分と冷静さを欠いていたらしく、声をかけられるまで、前方から柏木さんが歩いてくることすら気が付かなかった。
咄嗟に曖昧な返事をした俺に、柏木さんは怪訝な表情を浮かべている。
そういえば、顔を見て思い出したが、あの席には柏木さんも同席していた。よりこの世界が長い彼なら、何か知っていてもおかしくない。そう考え、思い切って聞いてみることにした。
「柏木さん、会食のとき聞かされた噂話覚えてますか?」
「噂?……あぁ、池がどうのってやつか?」
「はい、それです…あの、あれって本当のことなんですか?」
急に尋ねられた柏木さんはきっと戸惑ったと思う。そりゃあそうだろう。
賑やかしのための話を大の大人が、曲がりなりにも大組織の会長が本気にする素振りを見せるなど。
「少なくとも俺は、あそこで初めて聞いたが…何かあったのか?」
「いえ、その…」
池が赤く見えたんです。なんて馬鹿馬鹿しいんだと自分でも思ったが、せき止める前に口をついて出ていた。
しまった、と思うがもう遅い。瞬間、柏木さんの目がキュッと細まり、眉間に皺が寄る。言わずとも表情から、くだらないことを言うなと叱責されていた。
「んなわけがあるか」
「俺もそう思いたいですけど、でも、」
「会議続きで疲れてんだろ、早く帰って休め」
「……一緒に、見に行ってくれませんか?」
「…何言ってんだ、」
「か、柏木さんは組の事務所があるからいいですよ!でも俺は、ここで、仕事してるんです!直接見てみないことには、」
大方無いだろうが、もし何かあった時のために一人で行くよりは人手があった方が良いと思った。
こんなことを他の組員に頼むのは憚られる。柏木さんも大概乗り気ではなさそうだが、でもきっと来てくれる。そういう確信が俺にはあった。
「あぁ…分かった分かった!一目確かめりゃ気が済むんだな?」
「…はい!」
「しょうがねぇな…少し様子見たらすぐ帰るぞ」
柏木さんはうんざりとした顔でため息をついていたが、俺はこの素っ気なくも面倒見の良い物言いにほっとする。
ガキの頃にもこうして、無理言って付き合わせたことが何度もあった。月日が経ち、こんな大男になっても尚、変わらず自分のわがままを聞きいれてもらえることが嬉しかった。普段から感じてはいるがこういう時は特に、俺は多くの人に支えられて生きてきたんだと感じる。
…話を戻そう。というわけで、俺と柏木さんは揃って庭へと赴いた。
深夜でもまだ熱が残り外はかなり蒸し暑く、ジャケットを脱いできて正解だと思った。
噂では確か"重く湿った空気が"とか何だの言っていたが、夏本番の気候とそれの判別が誰に出来ると言うのだろうか。
「いつもと変わりなく見えるがな…」
「ちょっと近くで見てきます」
「あ、おい、気をつけろよ!」
柏木さんを長く付き合わせるのは悪いと思った俺は、忠告も聞かず池の淵まで小走りで向かった。
そこから池を眺めるが、特に昼間と変わった様子はない。照明が当たらない部分は影になっているからか、黒く淀んでいるようにも見える。それでも、異変というにはほど遠い。
やはりただの与太話だったかと安堵のため息をつく。同時に両膝へ手をつき前かがみになったその時、池の淵に自分の顔が映った。
目を疑う。というより、信じられる訳がなかった。
池に映る顔が、池の底から伸びるニ本の手に掴まれている。ギリギリと爪が食い込む。視覚とは相反して、痛みは感じなかった。
傷の付いた頬から、眼窩から、流れ出たそれが黒々と影をたたえる水面に漂う。匂いにでも誘われたのか鯉が群がり、尾ひれが水を打ち上げた。
身体は動かそうにも指一本動かない。ただ鯉の鱗だけが光を照り返し、煌めいているのを見つめるしかなかった。
煩い水音と共に飛沫が散り、池の水が染まって、それで──
気がついたときには、俺は大広間の縁側に寝かされていた。
「大吾、大丈夫か?やっぱお前、相当疲れてたんだろ」
隣には柏木さんが座っていて、目を開けた俺に声をかけた。
スーツを折り目正しく着ていたはずの柏木さんは、ジャケットを脱ぎ、ネクタイも外している。皺ひとつなかったシャツは胸元のボタンがくつろげられ、袖も捲られていた。
珍しいその装いをぼんやりと眺めていると、次第に意識が輪郭を帯びていく。途端、先ほど見たものが頭に浮かび、俺は上体を勢いよく起こした。
「…っ、かお!俺の顔、どうなってます!?」
「顔?別に、いつもと変わらんが…いや、顔色は悪いな」
言われた俺は自分の顔を手で触って確かめたが、確かに怪我をしている様子はない。頬に、汗ばんだ手のひらがひたひたと張り付くだけだった。
「ほらよ、」
手渡された小さな鏡を覗き込むと、青い顔をしているものの概ねいつも通りの顔が映っている。
違うところといえば、後ろに撫でつけていたはずの髪が束になって額に数本落ちていた。触れればそれはじっとりと濡れており、そのせいで崩れたのだとすぐに分かった。
「お前、池覗いたと思ったら前のめりに倒れて顔面から突っ込んだんだぞ」
「えっ、」
「ったく、こんなデカい図体運ぶ方の身にもなってくれ。お陰で明日は全身筋肉痛決定だ」
そう言われて見てみれば、シャツの首元や胸元も濡れていた。気温の高さが幸いして寒さは感じないが、肌に張り付く布地が煩わしい。
無理をさせてしまったことを申し訳なく思っていると、突然柏木さんが鼻を鳴らして笑った。
「鯉が群がってて噂みてぇだったがな、あいつらなんでも口に入れやがる」
言いながら、柏木さんはいかにも暑そうな様子でシャツの胸元を引っ張り、バサバサと空気を送った。
しなだれた前髪が風に揺れて、こめかみからは一筋の汗が伝う。捲った袖口で首元の汗を拭い、それにしてもあちぃなと笑った柏木さんを見て、俺も引き攣った頬で笑いを返した。
そのあとは大方予想ができると思うが、俺は体調を危惧した柏木さんによって早々に帰された。
休みでももらえるかと期待したもののそこまで甘くはなく、翌日も引き続き仕事は山積みだった。ちなみに柏木さんは、宣言通り筋肉痛に悩まされたらしい。
俺が見たものは結局、柏木さんには話していない。話したところで、更に呆れられるのが目に見えているからだ。
それでも俺は、あれから昼夜を問わず池にはなるべく近寄らないようにしている。
水面が揺らめき、鯉の鱗が光る度に隣合った底知れぬ闇を思い返してしまう。
美しく見えていたそれが今は、ただ恐ろしくてしょうがない。