- つうつう -

獅子堂


 昨日と変わらない夜、寝支度を整える間何となしに点けたテレビにはニュース番組が映る。
歯を磨きながら薄らと見聞きした天気のコーナーでは、朗らかな笑顔を湛えた女性キャスターが明日の予報を伝えていた。
 戸締まりと消灯を確認したなまえは、あとはもう寝るだけとベッドに潜り込んだ。
枕元に置いたスマートフォンを手に取れば、画面がやけに眩しく感じる。睡眠の質にも関わるので控えるべきだと、分かってはいるのだがつい見てしまう。慣れた手つきでSNSを開き、流れてくる猫の動画に小さく笑みを漏らした。

 画面を眺める目が覚束なくなってきた頃、不意に玄関扉が解錠される音が耳に入った。その後すぐに開いた蝶番の軋む音が聞こえるも、配慮しているようで扉の閉まる音はごく小さいものだった。
なまえは突然のことに束の間身を固くしたが、この部屋の鍵をこうして開けられるのは自分以外に獅子堂しかいない。

 彼を初めてここに招いたのは、良い関係になって間もない頃。それから獅子堂は時折今日のように、連絡もせず訪れるようになった。
なまえが在宅時は何の問題もない。問題なのは不在時、飼い主を待つ犬さながら玄関前に佇んでいることだった。
失礼ながらあまり良い印象の風貌ではないので、住人や通行人に通報されかねない。そう危惧したなまえは、早々に合鍵を手渡したのだった。

 玄関を抜けた獅子堂は、もう寝ているであろう家主のこと思ってか極力鳴りを潜めているようだった。
そんな配慮が出来るのなら、来訪前に一報入れてくれれば。そうすればもっとちゃんとした、二人の時間が過ごせるのに。そうぼやきたくなったが、これもきっと彼なりの、こちらに気遣いをさせないための配慮なのだろう。
 実際、突然来ることに関して驚きはするものの、嫌悪感はこれっぽっちもない。ふと寂しくなる夜があるのはお互い様なのだとそう思えた。

 廊下と洋室をつなぐドアが徐ろに開けられる。獅子堂からは暗闇の中、淡い光に照らされたなまえの顔だけがぼんやり浮かんで見えていることだろう。
「なんや、起きとったんか」
暗闇に飲まれ、顔は見えない。だが、低い声とぶっきらぼうな物言いは紛れもなく獅子堂のものだった。なまえは布団を捲りベッドの縁に腰掛け、影に向かって声をかけた。
「はい、でもちょっと、うとうとしてました」
「そら邪魔したな」
獅子堂は明かりのない中でも勝手知ったる部屋のようで、電気のスイッチを難なく探り当てると、迷うことなく押した。
「うわ!眩し!」
突如として灯る照明に目を焼かれる。なまえは咄嗟にギュッと目を閉じるも、瞼から透ける光すら苦痛で顔をしかめた。

「はは、ええ顔や」
獅子堂は先ほどとは打って変わって無遠慮にのしのしと歩き、ソファに腰を下ろした。
二人掛けの小さなそれはガタイの良い獅子堂にとっては手狭だが、それが何故だかとても気に入っていた。
なまえの住戸には今いる洋室と水回りの設備、あとは廊下に備えられたキッチンがあるだけ。ソファもベッドも、全てが自分には手狭に感じる。
狭い場所に閉じ込められるのはもうごめんだと思っていたのに、なまえの部屋だけはその狭さが妙に落ち着くのだ。
 それに気がついたのはいつだったか、その頃にはここに足繁く通うようになっていた。聞かれたところで素直に答えはしないが、訪ねてきた理由を聞かれないのも気楽だった。

 明るさに慣れたなまえが目を開ければいつも通り傷だらけの、いつもより満足気な顔がこちらを見ている。
背もたれに腕を預け、ふんぞり返る彼の節くれだった手には赤く血が滲んでいた。手の甲、握ったときに出っ張る骨の上。明らかに何かを殴ったときに出来る傷だった。
「また喧嘩したんですか?」
なまえは手を指差し、窘めるように問う。
獅子堂はというと、忘れていたとでも言うように指摘されたそれを横目で見やり、悪びれる様子もなくヒラヒラと振った。
「売られた喧嘩は買わな、メンツ丸潰れやろ」
「でもその度怪我してたら、」
「こんなもん怪我のうちに入らん」
「…だけど痛そうですよ」
「なら、手当てでもしてくれや」

 言われたなまえはベッドから立ち上がり、近づいて獅子堂の手を見た。擦れてめくれた皮が痛々しい。出血は止まっているが、乾いた血が傷の周りを汚している。
「手洗いうがいしました?」
「してへん」
「じゃあついでに傷口もちゃんと洗ってきてください、その間に準備しておきますから」
「…邪魔くさ、消毒したら済む話やろ」
「無闇に消毒しない方がいいんですよ、ほら、早く」
獅子堂をソファから無理やり立たせ、背中を押して廊下へと追いやった。
渋々洗面所へ向かう獅子堂を見送ったなまえは、引き出しにしまっていた絆創膏を箱ごと取り出し、ソファ前のテーブルに置いた。怪我の手当とは言ってもこの程度しかできることはないが、獅子堂はそれで満足するだろうか。

 テーブルの横に一度は腰を下ろしたなまえだが、なにかを思い出したように立ち上がり洗面所へ向かった。
そこでは獅子堂が洗面台に向き合い、大きな背を曲げて手を洗っている。近づいてきたなまえに気がつき、頭をもたげた獅子堂と鏡越しに目が合った。
「…ちゃんと洗ってんで」
「沁みますか?」
「別に、大したことあらへん」
なまえは戸棚からタオルを1枚取り出し、獅子堂に手渡した。受け取った獅子堂は、粗雑に手を拭きながら洋室へと戻っていく。
後について入ると、ソファへ腰を下ろした獅子堂が右手を差し出した。

 なまえは再度床に腰を下ろし、獅子堂の手をとった。まだ水気の残るそれをタオルで優しく包んだあと、傷口に絆創膏を貼って軽く押さえる。動かしにくくないですか?と聞けば獅子堂は手を握って開いて、何度か繰り返したのち大きく縦に頷いた。
 従順な獅子堂に気をよくしたなまえは、今しがた貼った絆創膏に軽く口付けた。手当ての終わりに、母親がしてくれたおまじないだった。早く治りますように、そう唱えられると本当に痛みが和らぐのが不思議でたまらなかった。
子ども騙しなおまじないが獅子堂にも効くかは分からないが、なんとなく、彼を見ていたらそうしてあげたい気分になったのだ。
「なんや今の」
「早く治るおまじないです、母によくやってもらったんですよ」
「おまじないか…そらええな」
獅子堂のことだからアホらしいとでも言い捨てて、鼻で笑われるものだとばかり思っていた。それがあまりにも嬉しそうに笑うものだから、面食らったなまえは気恥ずかしくなり目を泳がせた。

「ほなそれ、ここにも頼むわ」
獅子堂がここ、と指差したのは自身の口角だった。よく見れば切れたようでほのかに赤みが差している。
「え、殴られたんですか?」
「雑魚相手にンな訳ないやろ、乾燥して切れたんや」
獅子堂はなまえの手首を掴んで立たせ、そのままソファに座る自分へと引き寄せた。
なまえは咄嗟に背もたれへ手を突っ張るが、距離をとるにはあまりに頼りない。狼狽えるなまえとは対照に、獅子堂は余裕そのものだった。
「はよ治った方が、なまえも嬉しいやろ?」
いつもは見上げている獅子堂の顔を見下ろす。
急かすように顎をクイと持ち上げる獅子堂の頬を両手で固定し、口の端に唇を落とした。ほんの一瞬のことだったが、顔に熱が集まる。
そんななまえを見た獅子堂は、切れた口角を気にすることなく吊り上げた。

「あー、昼に舌噛んだとこ、なんや痛なってきたわ」
わざとらしく芝居がかった口調に、したり顔。
先ほどまでの可愛げはどこへやら、瞳はギラギラと色めきだっている。
「なぁ、ここもおまじないしてくれや。減るもんちゃうし…ええやろ?」
形勢は逆転し、立ち上がった獅子堂に見下ろされている。気まずそうに俯いた顎を片手で掬い上げられれば、赤い舌と白い歯を覗かせた挑発的な獅子堂と否応なく向かいあう。
「……睡眠時間は、減りますよね」
「ハッ、よぉ分かっとるやないか」
いつの間にか後頭部へ回されていた手に力が込められ、なまえはそれ以上言葉を返せなかった。

ただ、これから始まる長い夜を憂いながら、快晴だと告げられていた明日へと思いを馳せるのだった。