- 身上 -
大吾
定時などとっくに過ぎ、気がつけば長針は3周以上回っていた。体の凝りを解すように大きく肩を回せば、固まっていた節々が鈍い音を鳴らす。
今月に入って一度も定時に上がれた試しがない。上司からは面倒な仕事や外回りを押し付けられ、同期は次々と退職し他へ移った。その人手が補充されることもなく、業務量は日々嵩む一方だ。
もう辞めるべきかもしれない、そうは思うのだが終わりにするにはあと一歩が足りなかった。そうして今日まで現状維持することを選んできた。
事務所には未だ手を止めず残る同僚がひとりだけ。
なまえ
はその人物に自身の退勤を伝えると、疲弊しきった体を引きずるように歩きだした。
日中は天気予報が伝えていた通り梅雨の晴れ間で、雲は多いものの連日の雨とは打って変わって日が差していた。太陽はとっくに沈みきっており、その恩恵が受けられないのは残念だが雨が降っていないだけでも御の字だろう。
今晩も簡単に済ませてしまおうと考えた
なまえ
は雑居ビルの玄関を抜け、最寄りのコンビニへと足を伸ばした。
受け取ったビニール袋には購入した弁当と缶チューハイ、それに新発売のポップが貼られていたチョコレート菓子が入っている。
気だるげな店員の声を背に受けながら自動ドアを抜けたとき、手にひやりと冷たいものが落ちてきた。
見上げた空はいつの間にか夜闇でも判別できるほど分厚く暗い雲に覆われている。そこから雨粒がふたつみっつと落ち、黒々としたアスファルトに吸い込まれていく。
たちどころに地面を叩きつけるほどの強さへ変わる雨足に、
なまえ
は慌てて鞄の中を探るも目当てのものにはあたらない。買えばそれで済む話ではあるのだが、たかが数分のために一食分を費やすのは気が引ける。
これがにわか雨であることを期待し、
なまえ
はコンビニの軒先で雨上がりを待つことに決めたのだった。
隣には濃色のジャンパーを羽織った男がひとり、備え付けの灰皿横に立っていた。男は煙草を一本口に咥えたまま、胸元、腰回りと順にポケットをまさぐっては首を傾げている。
横目で見ていた
なまえ
はその行動に覚えがあった。そして先ほど探ったばかりの鞄の中を再度漁り、今度は目当てのものを取り出した。
なまえ
の勤めている会社には、上司の咥えた煙草に部下が火をつける習わしがあった。昔からのことが今もなお廃れずに残っているらしい。飲みの席に限られてはいたが拒絶もできず、吸いもしない煙草のためにライターを持ち歩くなどなんと馬鹿馬鹿しく忌まわしいことだろう。
「よかったら、どうぞ」
ありふれたプラスチック製のライターを差し出すと、男は突然のことに驚き目を丸くした。視線は
なまえ
とライターを往復している。再度促すように差し出せば、
なまえ
の手からおずおずとライターを取った。
「すみません、お借りします」
言いながら小さく腰を折った男のジャンパーの胸元には、警備会社と思しき社名が書かれていた。
カチ、カチとライターが火花を散らす。煙草から煙がたちのぼり、辺りには独特な苦味のある匂いが漂った。火をつける為吸いこんだ煙を流れるように吐き出した男は、ライターを返すのと同時に
なまえ
へ声をかけた。
「煙草、要りますか?」
灰皿から多少離れてはいるが軒先に立ち、ライターまで持っている。そんな
なまえ
が煙草に手を伸ばさないのを疑問に思ってのことだった。
自分がライターを持ち合わせていなかったように、煙草を持ち合わせていないのではないかと。
「いえ、私喫煙者じゃないんです」
小さく驚きの声を漏らした男の言わんとしていることを察した
なまえ
は、いかにもな愛想笑いを浮かべながら自分がライターを持っている理由を説明した。
他人に聞かせられるような褒められた理由ではなかったが、不思議と話すのは憚られなかった。むしろ聞いて欲しいとすら思ったのだ。あわよくばそんな会社を否定してもらえたなら、足りないあと一歩が踏み出せるかもしれないとすら。
「それって、」
ヤクザみたいだ、男はそう言いかけて口を噤んだ。
男は、堂島大吾は自分が極道組織の会長を務めていたときのことを思い返していた。
あの頃は煙草を咥えればどこからともなく伸びてくる手があった。自身が誰かに火を運ぶこともあったし、それが一種のコミュニケーションと信頼の表れだった。
幼い頃から見ていた自分にとってはごくごく普通のことだったが、一般的には好まれないことなのだ。
染み込んだ習慣や常識はなかなか抜け切らず、裏社会からうまく抜け出たつもりでいた自分に何度呆れたことだろう。
「それって…なんです?」
「すみません、前の職場を思い出してしまって」
言葉の続きを問われた大吾は取り繕って答えた。
元とはいえ簡単に身分を明かすことも、人の勤め先を極道組織のようだと揶揄することもできない。人様を批判できるような立場の人間ではないと自分が一番良く分かっている。
「まあ、俺は貸してもらう側でしたけど…」
こんな風に、と冗談めかした大吾は煙草を挟んでいる手を軽く掲げた。
「じゃあ部下の方は大変でしたね」
「ええ、本当に。苦労をかけてばかりで」
同様におどけて見せる
なまえ
に大吾は自嘲気味に眉を下げた。
後ろ向きな考えばかりが浮かぶ自分を諌めるように、深く煙草を吸い込む。
「…私、今の会社辞めようか迷ってて」
そんな会社は辞めて当然だろうと真っ先に思ったが、大吾は口に出さない。代わりに先程吸った煙を静かに吐き出した。
「このままじゃ駄目だってそう思うんですけど、でも、」
「自分を信じていいんですよ。…大丈夫です、きっとうまくいきますから」
一瞬驚いた顔をした
なまえ
は礼を言って笑ったが、これは大吾自身への言葉でもあった。
大吾は自分が大切にしてきたものを守るために自らの手で終わらせ、新たな道を切り拓くことを選んだ。
当然反発も多くあった。本当にこれでいいのかと頭を悩ませ、眠れなかった夜は数え切れない。だが、信じて進む他なかったのだ。
今しがた聞かされた葛藤は、まるで自分を見ているようで背を押したくなった。自分があの時、仲間にそうしてもらったように。
大吾は短くなった煙草を灰皿に落とし、次の一本を取ろうと胸元へ手を伸ばす。途中でライターを持っていないことを思い出した。
「…すみません、もう一度借りてもいいですか?」
「あ、はい。というか、差し上げます」
「いえ、それは、」
「残りも少ないですし…私、きっともう使いませんから」
大吾はどうぞと差し出されたライターを受け取った。
透き通った青色の中で液化したガスが波打っている。言っていた通り残量は1センチにも満たなかった。
打ちつけていた雨もいつの間にか弱まり、まばらに降るのみとなっている。
なまえ
は軒先から手を伸ばし、手に当たる雨粒の少なさに安堵の表情を浮かべた。
「じゃあ、私はこれで」
「あ、はい…あの、ライターありがとうございました」
「いえ、そんな、こちらこそありがとうございました」
なまえ
は大吾に一礼し、小雨の降る中に踏み出した。
大吾は早足で進むその背中が曲がり角に差しかかり見えなくなるまで、手の内で揺蕩うライターを握り込んでいた。
そして名も知らぬ彼女にとっての明日が希望に満ちたものであれとただ一人願いながら、二本目の煙草へ火を灯した。
定時などとっくに過ぎ、気がつけば長針は3周以上回っていた。体の凝りを解すように大きく肩を回せば、固まっていた節々が鈍い音を鳴らす。
今月に入って一度も定時に上がれた試しがない。上司からは面倒な仕事や外回りを押し付けられ、同期は次々と退職し他へ移った。その人手が補充されることもなく、業務量は日々嵩む一方だ。
もう辞めるべきかもしれない、そうは思うのだが終わりにするにはあと一歩が足りなかった。そうして今日まで現状維持することを選んできた。
事務所には未だ手を止めず残る同僚がひとりだけ。なまえはその人物に自身の退勤を伝えると、疲弊しきった体を引きずるように歩きだした。
日中は天気予報が伝えていた通り梅雨の晴れ間で、雲は多いものの連日の雨とは打って変わって日が差していた。太陽はとっくに沈みきっており、その恩恵が受けられないのは残念だが雨が降っていないだけでも御の字だろう。
今晩も簡単に済ませてしまおうと考えたなまえは雑居ビルの玄関を抜け、最寄りのコンビニへと足を伸ばした。
受け取ったビニール袋には購入した弁当と缶チューハイ、それに新発売のポップが貼られていたチョコレート菓子が入っている。
気だるげな店員の声を背に受けながら自動ドアを抜けたとき、手にひやりと冷たいものが落ちてきた。
見上げた空はいつの間にか夜闇でも判別できるほど分厚く暗い雲に覆われている。そこから雨粒がふたつみっつと落ち、黒々としたアスファルトに吸い込まれていく。
たちどころに地面を叩きつけるほどの強さへ変わる雨足に、なまえは慌てて鞄の中を探るも目当てのものにはあたらない。買えばそれで済む話ではあるのだが、たかが数分のために一食分を費やすのは気が引ける。
これがにわか雨であることを期待し、なまえはコンビニの軒先で雨上がりを待つことに決めたのだった。
隣には濃色のジャンパーを羽織った男がひとり、備え付けの灰皿横に立っていた。男は煙草を一本口に咥えたまま、胸元、腰回りと順にポケットをまさぐっては首を傾げている。
横目で見ていたなまえはその行動に覚えがあった。そして先ほど探ったばかりの鞄の中を再度漁り、今度は目当てのものを取り出した。
なまえの勤めている会社には、上司の咥えた煙草に部下が火をつける習わしがあった。昔からのことが今もなお廃れずに残っているらしい。飲みの席に限られてはいたが拒絶もできず、吸いもしない煙草のためにライターを持ち歩くなどなんと馬鹿馬鹿しく忌まわしいことだろう。
「よかったら、どうぞ」
ありふれたプラスチック製のライターを差し出すと、男は突然のことに驚き目を丸くした。視線はなまえとライターを往復している。再度促すように差し出せば、なまえの手からおずおずとライターを取った。
「すみません、お借りします」
言いながら小さく腰を折った男のジャンパーの胸元には、警備会社と思しき社名が書かれていた。
カチ、カチとライターが火花を散らす。煙草から煙がたちのぼり、辺りには独特な苦味のある匂いが漂った。火をつける為吸いこんだ煙を流れるように吐き出した男は、ライターを返すのと同時になまえへ声をかけた。
「煙草、要りますか?」
灰皿から多少離れてはいるが軒先に立ち、ライターまで持っている。そんななまえが煙草に手を伸ばさないのを疑問に思ってのことだった。
自分がライターを持ち合わせていなかったように、煙草を持ち合わせていないのではないかと。
「いえ、私喫煙者じゃないんです」
小さく驚きの声を漏らした男の言わんとしていることを察したなまえは、いかにもな愛想笑いを浮かべながら自分がライターを持っている理由を説明した。
他人に聞かせられるような褒められた理由ではなかったが、不思議と話すのは憚られなかった。むしろ聞いて欲しいとすら思ったのだ。あわよくばそんな会社を否定してもらえたなら、足りないあと一歩が踏み出せるかもしれないとすら。
「それって、」
ヤクザみたいだ、男はそう言いかけて口を噤んだ。
男は、堂島大吾は自分が極道組織の会長を務めていたときのことを思い返していた。
あの頃は煙草を咥えればどこからともなく伸びてくる手があった。自身が誰かに火を運ぶこともあったし、それが一種のコミュニケーションと信頼の表れだった。
幼い頃から見ていた自分にとってはごくごく普通のことだったが、一般的には好まれないことなのだ。
染み込んだ習慣や常識はなかなか抜け切らず、裏社会からうまく抜け出たつもりでいた自分に何度呆れたことだろう。
「それって…なんです?」
「すみません、前の職場を思い出してしまって」
言葉の続きを問われた大吾は取り繕って答えた。
元とはいえ簡単に身分を明かすことも、人の勤め先を極道組織のようだと揶揄することもできない。人様を批判できるような立場の人間ではないと自分が一番良く分かっている。
「まあ、俺は貸してもらう側でしたけど…」
こんな風に、と冗談めかした大吾は煙草を挟んでいる手を軽く掲げた。
「じゃあ部下の方は大変でしたね」
「ええ、本当に。苦労をかけてばかりで」
同様におどけて見せるなまえに大吾は自嘲気味に眉を下げた。
後ろ向きな考えばかりが浮かぶ自分を諌めるように、深く煙草を吸い込む。
「…私、今の会社辞めようか迷ってて」
そんな会社は辞めて当然だろうと真っ先に思ったが、大吾は口に出さない。代わりに先程吸った煙を静かに吐き出した。
「このままじゃ駄目だってそう思うんですけど、でも、」
「自分を信じていいんですよ。…大丈夫です、きっとうまくいきますから」
一瞬驚いた顔をしたなまえは礼を言って笑ったが、これは大吾自身への言葉でもあった。
大吾は自分が大切にしてきたものを守るために自らの手で終わらせ、新たな道を切り拓くことを選んだ。
当然反発も多くあった。本当にこれでいいのかと頭を悩ませ、眠れなかった夜は数え切れない。だが、信じて進む他なかったのだ。
今しがた聞かされた葛藤は、まるで自分を見ているようで背を押したくなった。自分があの時、仲間にそうしてもらったように。
大吾は短くなった煙草を灰皿に落とし、次の一本を取ろうと胸元へ手を伸ばす。途中でライターを持っていないことを思い出した。
「…すみません、もう一度借りてもいいですか?」
「あ、はい。というか、差し上げます」
「いえ、それは、」
「残りも少ないですし…私、きっともう使いませんから」
大吾はどうぞと差し出されたライターを受け取った。
透き通った青色の中で液化したガスが波打っている。言っていた通り残量は1センチにも満たなかった。
打ちつけていた雨もいつの間にか弱まり、まばらに降るのみとなっている。
なまえは軒先から手を伸ばし、手に当たる雨粒の少なさに安堵の表情を浮かべた。
「じゃあ、私はこれで」
「あ、はい…あの、ライターありがとうございました」
「いえ、そんな、こちらこそありがとうございました」
なまえは大吾に一礼し、小雨の降る中に踏み出した。
大吾は早足で進むその背中が曲がり角に差しかかり見えなくなるまで、手の内で揺蕩うライターを握り込んでいた。
そして名も知らぬ彼女にとっての明日が希望に満ちたものであれとただ一人願いながら、二本目の煙草へ火を灯した。