- 襟を正す日 -
春日(1/2)
横浜伊勢佐木異人町、繁華街の喧騒から外れたスナック街に軒を連ねるバー、サバイバー。
名の通り、逆境に立ち向かう人々が集い、たまり場となっている。尋ねることは憚られ、詳細は知り得ないが、カウンターにひとり佇むマスターの強面にも、壮絶な過去を物語る痕が刻まれていた。
外見とは裏腹に、親切なマスターと美味い酒。カラオケも楽しめるということもあって、一度利用すれば虜になる者も多い。穴場の名店、その言葉が良く似合う店だった。
かく言う
なまえ
も、そこを行きつけにするひとりである。きっかけは、そう特別なことではない。たまたま立ち寄った店がそこで、たまたま居合わせた者と意気投合した。ただそれだけだった。
それから折を見て訪れるようになり、その間隔が段々と短くなり、そして現在に至る。
今夜もこれといって用があるわけでも、気落ちして酒に溺れたいわけでもないのだが、自然と足はここへ向かい、気がつけば店の前。あえて理由を明言するならば、会いたい人がいるから、だろうか。
重厚な扉の向こうには、きっと今日も、賑やかな笑い声と笑顔が待っている。手をかけ、押し開けるこの瞬間は、何度経験しても胸が高鳴った。厚い木製の扉が、ぎぃと軋む。
目の前には、琥珀色の間接照明に照らされた店内が広がった。開いた扉に気がついたマスターは、手元に落としていた視線を上げるといらっしゃいと一言。
マスターへ一礼し、店内を見回せば、例に漏れずカウンターには春日が座っていた。その隣には、こちらも同じく足立が。例外なのは、ナンバの姿が見えないことだけだった。
「
なまえ
ちゃん、今日もおつかれさん!」
談笑していた春日は、今しがた入ってきた客が
なまえ
だと気がつくと、会話も放り出し満面の笑みを向けた。
この屈託のない笑顔を振りまく春日を見る度、
なまえ
には胸を締め付けられるような、甘い痛みが走る。それを悟られない様、回数を重ねるうちそれなりに作るのも上手くなった笑顔で挨拶を返した。
「なんだよ、ずいぶん遅いじゃねえか。今日はもう来ねぇのかと思ったぜ」
な、と足立から同意を求められた春日は、曖昧に返事を濁した。足立は既にかなりの量を飲んでいるのか、舌がうまく回っていない。言葉尻は輪郭を保たず、曖昧だった。
「残業でヘトヘトですけど、来ちゃいました」
「はは、そりゃいいな!じゃあ今日は沢山飲めよ!」
ほらそこ、早く座れ!言った足立は、自分の隣にも空きがあるにも関わらず、敢えて春日の隣の席を指さす。戸惑いを見せれば急かされ、
なまえ
はその通りにカウンター前の椅子へ腰を下ろした。
足立は
なまえ
の気を知ってか知らずか、こうして春日との間合いを詰めさせようと画策する節があった。
そんな気遣い──果たして本当にそうなのかは分からない──に、決まって
なまえ
の心は複雑な感情で満たされる。嬉しさと同時に、春日の無頓着さに対する小さな失望が胸を掠めるのだ。
今夜もそうだった。狭まる距離も気に留めず身体をこちらへ傾け、俺ぁ今日も来てくれるって信じてたぜ、なんて、分け隔てない声色で言ってのける。その一言が、行動が、どれだけ心を揺らし、焦がれさせているかなんて、考えたこともないのだろう。
ありがとうございます。何ともない様子を装いながら答えた
なまえ
だが、頬はずいぶんと緩みきっていた。
高鳴る胸を抑え、誤魔化すようにマスターへ注文を伝える。
短く返事をしたマスターは、慣れた手つきでグラスに氷を落とした。それがカランと涼やかな音をたて、静かに注がれる酒に呑まれてゆく。液面は揺らめき、ペンダントライトの淡い光を照り返す。
なまえ
がじぃと見ていることに気がついたマスターは、隣に座る春日を一瞬横目で見やるとすぐに、
なまえ
と視線を交わした。足立と何やら話をしている春日は、そんな二人のやりとりにも気がつかない。
この
なまえ
にのみ通ずる目配せと、含みのある笑いは今に始まったことではない。仕事柄、心の内を読むのが得意なのか、マスターには早々に気持ちを言い当てられ、それからはこの慕情を応援──とは言っていたが、面白がっているだけな気もする──してくれている。らしい。
マスターは揶揄うような表情のまま、頑張れよと口だけ動かしながら、酒の湛えられたグラスを
なまえ
の前に置いた。
「よし、まずは乾杯だ!」
アルコールで平生より柔らかな顔をしている足立は、間に座る春日を気にすることなく、
なまえ
にずいとグラスを近づけた。
春日の中ほどに差し出されたそれに、腕を伸ばしてグラスを合わせれば、二つのグラスが高い音を鳴らす。
「ほら!お前も!」
足立が春日にかけた声を聞いて、
なまえ
も同じくそちらに目を動かした。
その時、飛び込んできたものに心臓が一度、強く跳ねる。
春日の胸元で、ボタンホールから伸びた心許ない糸に吊られて、小さな白いボタンが揺れている。
いつも開けられている上から二つのボタン、その下の三つ目。伸びた糸の分、しなだれたシャツから春日の鍛えられた胸元がより露わになっていた。
どくどく、拍動の音がひどく耳につく。まだ一滴も飲んでいないというのに、紅潮する頬があつい。
赤いジャケットと、白いシャツのコントラストが眩しい。慌てて目を逸らしたが、脳裏に焼きついたそれはなかなか離れてはくれなかった。
左右から伸びる腕に、どこか窮屈そうな春日も同様にグラスを持ち上げた。三つのグラスが合わさり、揺れた氷は静かに沈む。
足立が高らかに「乾杯!」と声を上げたのを皮切りに、
なまえ
は湧き上がる劣情を押し殺すよう、酒をぐいと煽った。
「かーっ!うめぇ!」
「なぁ足立さん、飲みすぎなんじゃねぇか?」
「なんだぁ?うるせぇ奴だな、いいだろ今日くらい」
「いや、いつもだろ!
なまえ
ちゃんもそう思うよな?」
「…えっ!?あ、は、はい!」
なまえ
の内は、シャツから覗く厚い胸板を反芻し続ける。それが突然、春日に声をかけられたものだから、えらくどもってしまった。
これでは何か、心乱されることがあったと言わんばかりだ。どれだけ察しの悪い者でも気がついてしまうだろう。春日でも、あるいは。
「
なまえ
ちゃん、大丈夫か?…なんか、あったのか?」
──そら見たことか。もしかすると、足立が画策しているのも、マスターに言い当てられたのも、相当分かりやすい性分なだけなのかもしれない。
気遣わしげに瞳を揺らす春日に、誤魔化す言葉も考えあぐね、寛げられた胸元をさしながら
なまえ
は言った。
「…春日さん、ここ、ボタンとれそうですよ」
「えっ?…あ、そうそう。チンピラに掴まれちまって」
今にも落ちそうなボタンに触れないよう、シャツの胸元をつまみ上げた春日は、苦い顔をして笑った。
「ナンバにつけてもらおうと思ってんだけど…あいつも、今日はなかなか来ねぇな」
「あいつ、そんな器用なことできんのか?」
「できるだろ、多分。俺のここ、縫ってくれたのもナンバだしよ」
春日はここ、と襟元を下にずらした。そのとき、あと一歩のところで堪えていた繋がりがぷつりと切れた。カツン、カツン。軽快な音と共に、落ちたボタンがカウンターに跳ねる。
なまえ
は、数回テーブルで跳ねたそれを咄嗟に掴まえた。
ナイスキャッチ!とやけに楽しげな足立とは対照に、眉を下げた春日は、ありがとな、もらっとく。言いながら手を差し出した。
手のひらに、ボタンを乗せる。小さなそれは、春日の大きな手の上では更にそう見えた。
「あーあ、取れちまった…」
「それ、
みょうじ
が付けてやったらいいんじゃねぇのか?」
不意に声を発したマスターが、先ほどと同じ目配せをする。今度は春日もそれに気がついたようで、
なまえ
とマスターの顔を往復した。
「は、はい!私で良ければ…」
「そりゃあ…有り難ぇけど、」
「いいじゃねぇか、春日!やってもらえよ!な!」
足立はニタニタと意地の悪い顔で笑って、渋る春日の肩を小突いた。やはりいつものあれは、気遣いなんて大層なものではなさそうだ。
指でボタンを転がしながら、しばし眺めた春日は、それをぎゅっと握り込んだ拳を
なまえ
の前に突き出した。
「じゃあ…任せた!」
唖然とした表情のまま呆ける
なまえ
。それを見た春日は、はにかんだ笑顔で、手出してくれるか、と問いかける。
はっとした
なまえ
が慌てて、揃えた両手を下へ潜り込ませれば、固く閉じていた拳が解かれた。ぽとり。重力に身を委ねたボタンは、
なまえ
の手の内へ。
「が、がんばります!」
言いながら
なまえ
は、それを両手の中に閉じ込めた。
この小さな繋がりが、なくならないように。あわよくば、良い方へ転がりますように。そんな願いを込めながら。
横浜伊勢佐木異人町、繁華街の喧騒から外れたスナック街に軒を連ねるバー、サバイバー。
名の通り、逆境に立ち向かう人々が集い、たまり場となっている。尋ねることは憚られ、詳細は知り得ないが、カウンターにひとり佇むマスターの強面にも、壮絶な過去を物語る痕が刻まれていた。
外見とは裏腹に、親切なマスターと美味い酒。カラオケも楽しめるということもあって、一度利用すれば虜になる者も多い。穴場の名店、その言葉が良く似合う店だった。
かく言うなまえも、そこを行きつけにするひとりである。きっかけは、そう特別なことではない。たまたま立ち寄った店がそこで、たまたま居合わせた者と意気投合した。ただそれだけだった。
それから折を見て訪れるようになり、その間隔が段々と短くなり、そして現在に至る。
今夜もこれといって用があるわけでも、気落ちして酒に溺れたいわけでもないのだが、自然と足はここへ向かい、気がつけば店の前。あえて理由を明言するならば、会いたい人がいるから、だろうか。
重厚な扉の向こうには、きっと今日も、賑やかな笑い声と笑顔が待っている。手をかけ、押し開けるこの瞬間は、何度経験しても胸が高鳴った。厚い木製の扉が、ぎぃと軋む。
目の前には、琥珀色の間接照明に照らされた店内が広がった。開いた扉に気がついたマスターは、手元に落としていた視線を上げるといらっしゃいと一言。
マスターへ一礼し、店内を見回せば、例に漏れずカウンターには春日が座っていた。その隣には、こちらも同じく足立が。例外なのは、ナンバの姿が見えないことだけだった。
「なまえちゃん、今日もおつかれさん!」
談笑していた春日は、今しがた入ってきた客がなまえだと気がつくと、会話も放り出し満面の笑みを向けた。
この屈託のない笑顔を振りまく春日を見る度、なまえには胸を締め付けられるような、甘い痛みが走る。それを悟られない様、回数を重ねるうちそれなりに作るのも上手くなった笑顔で挨拶を返した。
「なんだよ、ずいぶん遅いじゃねえか。今日はもう来ねぇのかと思ったぜ」
な、と足立から同意を求められた春日は、曖昧に返事を濁した。足立は既にかなりの量を飲んでいるのか、舌がうまく回っていない。言葉尻は輪郭を保たず、曖昧だった。
「残業でヘトヘトですけど、来ちゃいました」
「はは、そりゃいいな!じゃあ今日は沢山飲めよ!」
ほらそこ、早く座れ!言った足立は、自分の隣にも空きがあるにも関わらず、敢えて春日の隣の席を指さす。戸惑いを見せれば急かされ、なまえはその通りにカウンター前の椅子へ腰を下ろした。
足立はなまえの気を知ってか知らずか、こうして春日との間合いを詰めさせようと画策する節があった。
そんな気遣い──果たして本当にそうなのかは分からない──に、決まってなまえの心は複雑な感情で満たされる。嬉しさと同時に、春日の無頓着さに対する小さな失望が胸を掠めるのだ。
今夜もそうだった。狭まる距離も気に留めず身体をこちらへ傾け、俺ぁ今日も来てくれるって信じてたぜ、なんて、分け隔てない声色で言ってのける。その一言が、行動が、どれだけ心を揺らし、焦がれさせているかなんて、考えたこともないのだろう。
ありがとうございます。何ともない様子を装いながら答えたなまえだが、頬はずいぶんと緩みきっていた。
高鳴る胸を抑え、誤魔化すようにマスターへ注文を伝える。
短く返事をしたマスターは、慣れた手つきでグラスに氷を落とした。それがカランと涼やかな音をたて、静かに注がれる酒に呑まれてゆく。液面は揺らめき、ペンダントライトの淡い光を照り返す。
なまえがじぃと見ていることに気がついたマスターは、隣に座る春日を一瞬横目で見やるとすぐに、なまえと視線を交わした。足立と何やら話をしている春日は、そんな二人のやりとりにも気がつかない。
このなまえにのみ通ずる目配せと、含みのある笑いは今に始まったことではない。仕事柄、心の内を読むのが得意なのか、マスターには早々に気持ちを言い当てられ、それからはこの慕情を応援──とは言っていたが、面白がっているだけな気もする──してくれている。らしい。
マスターは揶揄うような表情のまま、頑張れよと口だけ動かしながら、酒の湛えられたグラスをなまえの前に置いた。
「よし、まずは乾杯だ!」
アルコールで平生より柔らかな顔をしている足立は、間に座る春日を気にすることなく、なまえにずいとグラスを近づけた。
春日の中ほどに差し出されたそれに、腕を伸ばしてグラスを合わせれば、二つのグラスが高い音を鳴らす。
「ほら!お前も!」
足立が春日にかけた声を聞いて、なまえも同じくそちらに目を動かした。
その時、飛び込んできたものに心臓が一度、強く跳ねる。
春日の胸元で、ボタンホールから伸びた心許ない糸に吊られて、小さな白いボタンが揺れている。
いつも開けられている上から二つのボタン、その下の三つ目。伸びた糸の分、しなだれたシャツから春日の鍛えられた胸元がより露わになっていた。
どくどく、拍動の音がひどく耳につく。まだ一滴も飲んでいないというのに、紅潮する頬があつい。
赤いジャケットと、白いシャツのコントラストが眩しい。慌てて目を逸らしたが、脳裏に焼きついたそれはなかなか離れてはくれなかった。
左右から伸びる腕に、どこか窮屈そうな春日も同様にグラスを持ち上げた。三つのグラスが合わさり、揺れた氷は静かに沈む。
足立が高らかに「乾杯!」と声を上げたのを皮切りに、なまえは湧き上がる劣情を押し殺すよう、酒をぐいと煽った。
「かーっ!うめぇ!」
「なぁ足立さん、飲みすぎなんじゃねぇか?」
「なんだぁ?うるせぇ奴だな、いいだろ今日くらい」
「いや、いつもだろ!なまえちゃんもそう思うよな?」
「…えっ!?あ、は、はい!」
なまえの内は、シャツから覗く厚い胸板を反芻し続ける。それが突然、春日に声をかけられたものだから、えらくどもってしまった。
これでは何か、心乱されることがあったと言わんばかりだ。どれだけ察しの悪い者でも気がついてしまうだろう。春日でも、あるいは。
「なまえちゃん、大丈夫か?…なんか、あったのか?」
──そら見たことか。もしかすると、足立が画策しているのも、マスターに言い当てられたのも、相当分かりやすい性分なだけなのかもしれない。
気遣わしげに瞳を揺らす春日に、誤魔化す言葉も考えあぐね、寛げられた胸元をさしながらなまえは言った。
「…春日さん、ここ、ボタンとれそうですよ」
「えっ?…あ、そうそう。チンピラに掴まれちまって」
今にも落ちそうなボタンに触れないよう、シャツの胸元をつまみ上げた春日は、苦い顔をして笑った。
「ナンバにつけてもらおうと思ってんだけど…あいつも、今日はなかなか来ねぇな」
「あいつ、そんな器用なことできんのか?」
「できるだろ、多分。俺のここ、縫ってくれたのもナンバだしよ」
春日はここ、と襟元を下にずらした。そのとき、あと一歩のところで堪えていた繋がりがぷつりと切れた。カツン、カツン。軽快な音と共に、落ちたボタンがカウンターに跳ねる。
なまえは、数回テーブルで跳ねたそれを咄嗟に掴まえた。
ナイスキャッチ!とやけに楽しげな足立とは対照に、眉を下げた春日は、ありがとな、もらっとく。言いながら手を差し出した。
手のひらに、ボタンを乗せる。小さなそれは、春日の大きな手の上では更にそう見えた。
「あーあ、取れちまった…」
「それ、みょうじが付けてやったらいいんじゃねぇのか?」
不意に声を発したマスターが、先ほどと同じ目配せをする。今度は春日もそれに気がついたようで、なまえとマスターの顔を往復した。
「は、はい!私で良ければ…」
「そりゃあ…有り難ぇけど、」
「いいじゃねぇか、春日!やってもらえよ!な!」
足立はニタニタと意地の悪い顔で笑って、渋る春日の肩を小突いた。やはりいつものあれは、気遣いなんて大層なものではなさそうだ。
指でボタンを転がしながら、しばし眺めた春日は、それをぎゅっと握り込んだ拳をなまえの前に突き出した。
「じゃあ…任せた!」
唖然とした表情のまま呆けるなまえ。それを見た春日は、はにかんだ笑顔で、手出してくれるか、と問いかける。
はっとしたなまえが慌てて、揃えた両手を下へ潜り込ませれば、固く閉じていた拳が解かれた。ぽとり。重力に身を委ねたボタンは、なまえの手の内へ。
「が、がんばります!」
言いながらなまえは、それを両手の中に閉じ込めた。
この小さな繋がりが、なくならないように。あわよくば、良い方へ転がりますように。そんな願いを込めながら。