- 潮と月明 -
春日
腕に巻いた時計の短針は、真上を向いている。賑わい、活気づく浜北公園ですら静まり返る時間だ。聞こえるのは、揺れる海面のざわめきと、そっと木の葉の触れ合う音だけだった。
なまえ
は、途中に立ち寄ったコンビニで購入した缶ビールを飲みながら、海の向こうに光る観覧車やビル群を眺めていた。
鬱々とした闇は、上方から差す照明によって裂かれ、その境界がより鮮明になっている。闇があるから光がある、とはよく言うものだが、これを見れば本当にその通りだと思う他ない。
一緒に飲もう、少々落ちた声色でそう電話をかけたのはつい十数分前のこと。二つ返事で了承され、バタバタと急く音が電話口から聞こえていた。
きっともう、すぐにでも来てくれる。彼はそういう、自身の都合よりも他人の心を優先する人だった。
夜空の下、時折ひゅうと風が吹く。肌を撫でるぬるく湿った風に、夏はまだ長いのだと悟った。それに乗って運ばれてくるのは、海の匂いばかりだ。漂う潮と、生い茂る草木や立ち昇る土の匂いが混ざる。
じとりと纏わりつくようなそれは、あまり気持ちの良いものとは言えない。腕を預けた柵から伝わる低い温度だけが、唯一心地良かった。
しばらくそうしていれば、今度は自然ばかりの中に、人の駆ける足音が混ざる。ゆっくりと振り返れば、提げた白いビニール袋をガサガサと揺らしながら、こちらへ向かう人影が見えた。
彼は、春日一番は、手を掲げると左右に大きく振りながら声をあげた。
「
なまえ
ちゃん!待たせちまってスマン!」
急き切った息に、額に薄らと滲む汗が光る。きっとここまで、絶えず駆けて来てくれたのだ。
彼の優しさが、刃のように胸を掠めた。それに付け込んだことに対する罪悪感が、じわりと静かに広がる。恋慕の甘さとは違う、苦く鈍い痛みだった。
「こっちこそ、急にごめんね」
「俺ぁいつも暇してんだ、気にすることねぇって」
「…そっか、ありがとう」
心からそう思っているのだろう、嘘のない彼の笑顔はとても眩しい。優しくされればされるほど惨めに感じ、
なまえ
は無意識に目を逸らす。春日は、本心を隠して笑みを貼り付けた
なまえ
の顔を、じっと見つめていた。
「多分…なんか、あったんだよな?」
「…ううん、別に、なんにも」
言って
なまえ
は、手にしていた缶の中身をぐいと飲み干す。
彼に想い人がいると知っている以上、この胸の内を明かす訳にはいかなかったのだ。大した量はなかったが、喉を抜ける緩やかな刺激で、幾分か気が紛れた。
空になった缶は、少しの力で簡単に拉げる。
なまえ
はそれを片手に、近くのベンチへと歩み寄った。
「はい、これ、一番の分」
そこに置いていたビニール袋から凹んだ缶と入れ替えに、缶ビールを二本取り出し、一本を春日へ差し出した。
あ、と小さく声をあげた春日は、それを受け取らない。代わりに、ぶら下げたままのビニール袋を探り、同じく缶ビールを取り出した。
尚も袋に重みがあるのを見ると、
なまえ
の分にまで気を回してくれたのだろう。
「俺も買ってきちまった」
「じゃあ、たくさん飲もうよ」
「そりゃいいけどよ…
なまえ
ちゃん、そんなに酒強くねぇだろ?」
「今日はそういう気分だから、いいの」
ベンチに腰を下ろした
なまえ
は、一方の缶ビールは座面に転がし、もう一方のプルタブを起こした。
弾ける音と共に噴き出す少量の炭酸に構うことなく、ごくごくと飲み下す。いつもより早急なその行動に、春日は不安気に眉を寄せた。
「…やっぱ、なんかあったんだろ?いや、言いにくいことなら無理には聞かねぇけど、」
話して楽になるなら俺が聞くぜ。隣に座った春日は、柔らかく言葉を続けた。
あたたかな声音が、夜の闇に溶けていく。
なまえ
もそれに呼応するように、ぽつりと呟いた。
「……夜ってさ、迷子になっちゃうでしょ?」
「…迷子?」
「うん…自分の今いる場所って、ほんとに合ってるのかなーって。向かうべきところが、わかんなくなっちゃうっていうか…」
春日は何かを返すことはせず、ただ
なまえ
を真っ直ぐ見ながら、声に聞き入っている。
「そうやって、考えてたらさ、」
言葉を続ける
なまえ
は、柔和なままの彼の瞳に、つい本心を明かしたくなった。直接的に言いさえしなければ、鈍感な彼に勘付かれることはないだろう。だから、少しだけ。
「一番に、会いたくなっちゃった」
思いがけない一言に春日は、目を丸くしたあと、照れくさそうに後頭部を擦った。
そんな風に頼られたら嬉しい、と飾り気のない春日の物言いに、
なまえ
は返答を決めあぐねる。缶を持つ手に力が入るが、満たされたそれが形を変えることはなかった。
言葉を探し、注意が散漫になったからか、ふと上から降ってくる羽音が気になった。見れば、街路灯に集まる虫たちが光に群がり、小さな渦を作っている。
この虫たちは、照明の光を道しるべと勘違いしていると聞いたことがある。まるで私のようだ、
なまえ
は心の内で呟いた。ぐるぐると旋回するその軌道にすら、心当たりがあった。
ただ光に惹かれ、群がるだけ。春日は皆の光になる存在で、
なまえ
はその光に身を焦がす、小さな羽虫の一匹に過ぎないのだ。
「
なまえ
ちゃんに呼ばれたら、いつでも飛んで来るぜ」
黙りこくったままの
なまえ
を案じて、また思いやりを見せた春日に、
なまえ
は小さく息を吐く。視線は遠く、穏やかにたゆたう海へと向いていた。
「…飛ばなきゃいけないのは、私の方だけどね」
独り言として落とされた言葉の意味を、受け取り損ねた春日は、そうなのか?と顔に疑問符を貼り付ける。
それをはぐらかすように努めて明るく、乾杯しよう、と缶を近づけた
なまえ
に、春日は慌ててプルタブへ指をかけた。
「うわっ!」
先程よりも大きく弾ける音。走って来たために揺られた缶ビールが、勢いよく噴き出す。溢れた泡は春日の手を過ぎ、ぼたぼたとアスファルトへ落ちていった。
「
なまえ
ちゃんの、貰えば良かったな」
濡れた手の水気を振り飛ばしながら、眉を下げた春日に、
「もう遅いよ」
なまえ
は言いながら、缶を突き合わせた。乾杯には似つかわしくない、鈍い音が鳴る。
流れるように、春日は缶へ口をつけ、
なまえ
は何度か上下する彼の喉を見つめた。またひゅうと風が吹き、潮の匂いが強くなる。目の端が熱を持ったのは、それが鼻の奥にツンと沁みたからだろうか。
大きく息を吐きながら口を離した春日は、今夜はいっぱい飲むぞ、と拳を突き上げる。
なまえ
も真似をして、飲むぞ、と拳を突き上げ、缶へ口をつけた。
羽虫の命は短い。だから今夜だけは、独り占めすることを許して欲しい。明日にはまた、皆のものとなるこの光を。
腕に巻いた時計の短針は、真上を向いている。賑わい、活気づく浜北公園ですら静まり返る時間だ。聞こえるのは、揺れる海面のざわめきと、そっと木の葉の触れ合う音だけだった。
なまえは、途中に立ち寄ったコンビニで購入した缶ビールを飲みながら、海の向こうに光る観覧車やビル群を眺めていた。
鬱々とした闇は、上方から差す照明によって裂かれ、その境界がより鮮明になっている。闇があるから光がある、とはよく言うものだが、これを見れば本当にその通りだと思う他ない。
一緒に飲もう、少々落ちた声色でそう電話をかけたのはつい十数分前のこと。二つ返事で了承され、バタバタと急く音が電話口から聞こえていた。
きっともう、すぐにでも来てくれる。彼はそういう、自身の都合よりも他人の心を優先する人だった。
夜空の下、時折ひゅうと風が吹く。肌を撫でるぬるく湿った風に、夏はまだ長いのだと悟った。それに乗って運ばれてくるのは、海の匂いばかりだ。漂う潮と、生い茂る草木や立ち昇る土の匂いが混ざる。
じとりと纏わりつくようなそれは、あまり気持ちの良いものとは言えない。腕を預けた柵から伝わる低い温度だけが、唯一心地良かった。
しばらくそうしていれば、今度は自然ばかりの中に、人の駆ける足音が混ざる。ゆっくりと振り返れば、提げた白いビニール袋をガサガサと揺らしながら、こちらへ向かう人影が見えた。
彼は、春日一番は、手を掲げると左右に大きく振りながら声をあげた。
「なまえちゃん!待たせちまってスマン!」
急き切った息に、額に薄らと滲む汗が光る。きっとここまで、絶えず駆けて来てくれたのだ。
彼の優しさが、刃のように胸を掠めた。それに付け込んだことに対する罪悪感が、じわりと静かに広がる。恋慕の甘さとは違う、苦く鈍い痛みだった。
「こっちこそ、急にごめんね」
「俺ぁいつも暇してんだ、気にすることねぇって」
「…そっか、ありがとう」
心からそう思っているのだろう、嘘のない彼の笑顔はとても眩しい。優しくされればされるほど惨めに感じ、なまえは無意識に目を逸らす。春日は、本心を隠して笑みを貼り付けたなまえの顔を、じっと見つめていた。
「多分…なんか、あったんだよな?」
「…ううん、別に、なんにも」
言ってなまえは、手にしていた缶の中身をぐいと飲み干す。
彼に想い人がいると知っている以上、この胸の内を明かす訳にはいかなかったのだ。大した量はなかったが、喉を抜ける緩やかな刺激で、幾分か気が紛れた。
空になった缶は、少しの力で簡単に拉げる。なまえはそれを片手に、近くのベンチへと歩み寄った。
「はい、これ、一番の分」
そこに置いていたビニール袋から凹んだ缶と入れ替えに、缶ビールを二本取り出し、一本を春日へ差し出した。
あ、と小さく声をあげた春日は、それを受け取らない。代わりに、ぶら下げたままのビニール袋を探り、同じく缶ビールを取り出した。
尚も袋に重みがあるのを見ると、なまえの分にまで気を回してくれたのだろう。
「俺も買ってきちまった」
「じゃあ、たくさん飲もうよ」
「そりゃいいけどよ…なまえちゃん、そんなに酒強くねぇだろ?」
「今日はそういう気分だから、いいの」
ベンチに腰を下ろしたなまえは、一方の缶ビールは座面に転がし、もう一方のプルタブを起こした。
弾ける音と共に噴き出す少量の炭酸に構うことなく、ごくごくと飲み下す。いつもより早急なその行動に、春日は不安気に眉を寄せた。
「…やっぱ、なんかあったんだろ?いや、言いにくいことなら無理には聞かねぇけど、」
話して楽になるなら俺が聞くぜ。隣に座った春日は、柔らかく言葉を続けた。
あたたかな声音が、夜の闇に溶けていく。なまえもそれに呼応するように、ぽつりと呟いた。
「……夜ってさ、迷子になっちゃうでしょ?」
「…迷子?」
「うん…自分の今いる場所って、ほんとに合ってるのかなーって。向かうべきところが、わかんなくなっちゃうっていうか…」
春日は何かを返すことはせず、ただなまえを真っ直ぐ見ながら、声に聞き入っている。
「そうやって、考えてたらさ、」
言葉を続けるなまえは、柔和なままの彼の瞳に、つい本心を明かしたくなった。直接的に言いさえしなければ、鈍感な彼に勘付かれることはないだろう。だから、少しだけ。
「一番に、会いたくなっちゃった」
思いがけない一言に春日は、目を丸くしたあと、照れくさそうに後頭部を擦った。
そんな風に頼られたら嬉しい、と飾り気のない春日の物言いに、なまえは返答を決めあぐねる。缶を持つ手に力が入るが、満たされたそれが形を変えることはなかった。
言葉を探し、注意が散漫になったからか、ふと上から降ってくる羽音が気になった。見れば、街路灯に集まる虫たちが光に群がり、小さな渦を作っている。
この虫たちは、照明の光を道しるべと勘違いしていると聞いたことがある。まるで私のようだ、なまえは心の内で呟いた。ぐるぐると旋回するその軌道にすら、心当たりがあった。
ただ光に惹かれ、群がるだけ。春日は皆の光になる存在で、なまえはその光に身を焦がす、小さな羽虫の一匹に過ぎないのだ。
「なまえちゃんに呼ばれたら、いつでも飛んで来るぜ」
黙りこくったままのなまえを案じて、また思いやりを見せた春日に、なまえは小さく息を吐く。視線は遠く、穏やかにたゆたう海へと向いていた。
「…飛ばなきゃいけないのは、私の方だけどね」
独り言として落とされた言葉の意味を、受け取り損ねた春日は、そうなのか?と顔に疑問符を貼り付ける。
それをはぐらかすように努めて明るく、乾杯しよう、と缶を近づけたなまえに、春日は慌ててプルタブへ指をかけた。
「うわっ!」
先程よりも大きく弾ける音。走って来たために揺られた缶ビールが、勢いよく噴き出す。溢れた泡は春日の手を過ぎ、ぼたぼたとアスファルトへ落ちていった。
「なまえちゃんの、貰えば良かったな」
濡れた手の水気を振り飛ばしながら、眉を下げた春日に、
「もう遅いよ」
なまえは言いながら、缶を突き合わせた。乾杯には似つかわしくない、鈍い音が鳴る。
流れるように、春日は缶へ口をつけ、なまえは何度か上下する彼の喉を見つめた。またひゅうと風が吹き、潮の匂いが強くなる。目の端が熱を持ったのは、それが鼻の奥にツンと沁みたからだろうか。
大きく息を吐きながら口を離した春日は、今夜はいっぱい飲むぞ、と拳を突き上げる。
なまえも真似をして、飲むぞ、と拳を突き上げ、缶へ口をつけた。
羽虫の命は短い。だから今夜だけは、独り占めすることを許して欲しい。明日にはまた、皆のものとなるこの光を。