- 先立ち -
力也
今でも時折、彼のことを夢に見る。
海がとても良く似合う人だった。その中で決まって彼は笑っていて、刺すような青と相まって目が眩む。
時は八月。落ちかけた陽ですら、じりじりと焦がすように肌を焼く夏本番。
所は海岸。昼夜を問わずひしめく海水浴場ではない、近隣に住む者にのみ使われるような、いわゆる穴場の浜。平常は涼やかな青色を湛える海面には、次第に茜色が溶け込みはじめていた。
何度一緒に来たのかは分からない。街まで出るのが億劫な日は、決まってここだった。海に入らずとも砂に腰を下ろして、ただ語り明かしたこともある。
互いの想いを確かめたことはないが、幼馴染だと言うには近すぎた。そのくらいの曖昧さが、二人にはちょうど良かったのかもしれない。
ここまで履いてきたサンダルを脱ぎ捨てる。乾ききった砂を裸足で踏みしめれば、ぬるいそれが指のすき間へと流れ込んだ。足の裏から伝わる熱で、身体はますますあつくなる。
なまえ
は涼しさを求め、海へと駆け寄った。飛び込むことはせず、波打ち際で足を止める。寄せる波がひやりと足を濡らし、返す波が足元の砂をさらっていった。
一歩を踏み出すと、今度は脛が青に染まる。海へと引かれる力が強くなり、足取りが覚束ない。脚に打ちつけた波が跳ね、上がった飛沫がショートパンツの裾を濡らした。
「おーい、
なまえ
も早く来いよ!」
先に、数メートル沖まで出ていた力也が声をあげた。振り上げた手で舞った飛沫が光る。夕日を背に影が落ちているが、彼の顔は安易に想像ができた。
そういえば力也は、砂浜に着いた途端早々にTシャツを脱ぎ捨て、ひとり波打ち際へと走っていた。
飛び込んだと思ったのも束の間、みるみるうちに沖まで泳ぎきった彼は、あろうことか
なまえ
をそこまで来るようにと呼びつけたのだ。
「無理だよ! ここが限界!」
「
なまえ
なら、いける!」
「む、無理だってば!」
波音に負けじと、互いに声を張り上げる。ややあって、水面に浮いていた力也は
なまえ
の元に歩み──もとい、泳ぎを進めた。足のつくところまで来ると、今度は歩みを進めながら口を開く。
「なぁ、いつも浅瀬で勿体ねぇよ」
「いいよ別に……泳ぐの、苦手だし」
「それなら、俺が連れてってやる」
あそこまで、と力也は先ほどまでいた沖を指さす。初めこそきっぱりと断った
なまえ
だったが、彼は諦めが悪い。問答を続ける内、次第に真剣さを増していく眼差しに、
なまえ
は観念する他なかった。
「……シャツ、脱いでくる」
「お、俺の着て帰りゃいい! ほら、早く!」
待ち切れないと言わんばかりの力也は、
なまえ
の手を引き、一歩また一歩と深みへ向かう。最初は膝、やがて腰へと水位が上がっていく。着たままのTシャツが纏わりついて、気持ちが良いとは言えなかった。
「絶対、離さないでよ……」
「当たり前だ、
なまえ
もちゃんと掴まっとけよ」
言われた
なまえ
は、力也の手をぎゅうと強く握った。力也もその手を強く握り返すと、また一歩を踏み出した。
波は既に胸辺りまで迫ってきていた。力也は砂底を蹴り上げるように沖へと進む。気がつけば、
なまえ
の足元はふわりと浮き、つま先は砂に触れなくなっていた。
「……あ、足、つかない、」
思わず、力也の肩に腕を回す。一瞬驚いた顔をした彼は、不安の滲む
なまえ
の顔を見ると、すぐに彼女の背に手を置いた。
なまえ
も力也の顔を見やる。目が合うと、彼はニィと笑って言った。
「俺がついてるから、平気だ」
妙に洒落た言いまわしをする力也に、
なまえ
は小さく吹き出した。なんだよ、と力也は眉間に皺を寄せる。なんでもないと言いながら、尚もからかうような笑いを浮かべる
なまえ
を見て、力也はますます眉間の皺を増やした。
「ったく、俺はそんなにチビじゃねぇぞ」
悪態をつきながらも、力也は
なまえ
の背に回した手を決して離しはしなかった。もうあと少し進んだところで、力也は立ち止まる。そして、「見ろよ」と沈みゆく夕日を指さした。
「ほら、こっから見る方が綺麗だろ?」
「うん……きれい、」
横一文字に伸びる水平線に、浅瀬から見るよりも大きく、眩しく照らす夕日が呑まれてゆく。
確かに、ここからの眺めは格別だった。そう伝えようとして、こちらを振り返った彼の顔が、思ったよりも近くにあって驚いた。
きっと頬は赤らんでいたが、それが胸の高鳴りのせいなのか、はたまた夕日のせいなのか、彼に判別はつかなかったはずだ。あの時見た彼の顔が、同様にそうだったから。
◇
台所から流れてくる、空腹をくすぐる匂いで目を覚ます。
盆休みを利用して実家に帰ったとて、特別することはない。皆だいたい同じだろうが、
なまえ
も例外なくその通りであった。手持ち無沙汰に縁側へ寝転がり、そのまま眠りこけてしまったらしい。
硬い床の上に寝たためか、身体を起こして伸びると背骨が引きつった。
伸びのついでに、庭先を通り抜けた風を吸い込む。海にほど近いここで吹く風は、そこはかとなく湿っぽい。潮の匂いが肺を満たし、先ほど見た夢と相まって懐かしさがこみ上げた。
ふと、洗濯物を干すときにでも使うのだろう、縁側の下に揃えられていたサンダルが目に入る。
なまえ
は半ば衝動的に足を通し、台所に立つ母へと声をかけた。
夕飯までには帰ってきなさい。まるで幼子に戻ったかのような注意を背に受けながら、庭を駆け出した。
傾いた陽が伸ばす影を追うように、
なまえ
は道を急ぐ。目的地はそう遠くはない。
ここに立つのは、いつ以来だろう。今、砂に残る足跡は
なまえ
のものだけになってしまったが、幾度となく二人で訪れた穴場の砂浜。それを鑑みても不思議なほどに人っ子一人いないのは、時期を考えれば当たり前のことだった。
盆の海には近づいてはいけない。この辺りの者は、幼い頃から親類に口酸っぱく教えられてきた。海に入れば、帰ってきたものたちに足を引かれると。
昔は得体の知れないそれを想像して恐れ慄いていたものだが、おとなになった今は違う。
波打ち際に足を浸す。返す波が、一歩また一歩と海へ踏み出させた。ざぶ、ざぶ。あがる飛沫を気に留めることもなく、歩みを進める。
子どもならば、迷信を信じて慌てて岸へと戻っただろう。あっという間に波が膝まで這い上がっても、
なまえ
は後には引かなかった。
何故なら、海にはなにもいない。足を引くものも、あの時のように手を引いてくれた彼も。名を呼ぶ彼も、照れくさそうに笑う彼も、なにもいないのだ。
「……盆くらい、帰ってきなよ」
確かに呟いたそれは、波音に飲まれて消えた。当然、返事はない。
ただ一直線に走るだけだった水平線が滲む。その先にあるのは、茜色に輝く夕日がひとつだけ。まるで道を敷くように水面へ一筋伸びる陽光が、波と共にゆらゆらと揺れていた
今でも時折、彼のことを夢に見る。
海がとても良く似合う人だった。その中で決まって彼は笑っていて、刺すような青と相まって目が眩む。
時は八月。落ちかけた陽ですら、じりじりと焦がすように肌を焼く夏本番。
所は海岸。昼夜を問わずひしめく海水浴場ではない、近隣に住む者にのみ使われるような、いわゆる穴場の浜。平常は涼やかな青色を湛える海面には、次第に茜色が溶け込みはじめていた。
何度一緒に来たのかは分からない。街まで出るのが億劫な日は、決まってここだった。海に入らずとも砂に腰を下ろして、ただ語り明かしたこともある。
互いの想いを確かめたことはないが、幼馴染だと言うには近すぎた。そのくらいの曖昧さが、二人にはちょうど良かったのかもしれない。
ここまで履いてきたサンダルを脱ぎ捨てる。乾ききった砂を裸足で踏みしめれば、ぬるいそれが指のすき間へと流れ込んだ。足の裏から伝わる熱で、身体はますますあつくなる。
なまえは涼しさを求め、海へと駆け寄った。飛び込むことはせず、波打ち際で足を止める。寄せる波がひやりと足を濡らし、返す波が足元の砂をさらっていった。
一歩を踏み出すと、今度は脛が青に染まる。海へと引かれる力が強くなり、足取りが覚束ない。脚に打ちつけた波が跳ね、上がった飛沫がショートパンツの裾を濡らした。
「おーい、なまえも早く来いよ!」
先に、数メートル沖まで出ていた力也が声をあげた。振り上げた手で舞った飛沫が光る。夕日を背に影が落ちているが、彼の顔は安易に想像ができた。
そういえば力也は、砂浜に着いた途端早々にTシャツを脱ぎ捨て、ひとり波打ち際へと走っていた。
飛び込んだと思ったのも束の間、みるみるうちに沖まで泳ぎきった彼は、あろうことかなまえをそこまで来るようにと呼びつけたのだ。
「無理だよ! ここが限界!」
「なまえなら、いける!」
「む、無理だってば!」
波音に負けじと、互いに声を張り上げる。ややあって、水面に浮いていた力也はなまえの元に歩み──もとい、泳ぎを進めた。足のつくところまで来ると、今度は歩みを進めながら口を開く。
「なぁ、いつも浅瀬で勿体ねぇよ」
「いいよ別に……泳ぐの、苦手だし」
「それなら、俺が連れてってやる」
あそこまで、と力也は先ほどまでいた沖を指さす。初めこそきっぱりと断ったなまえだったが、彼は諦めが悪い。問答を続ける内、次第に真剣さを増していく眼差しに、なまえは観念する他なかった。
「……シャツ、脱いでくる」
「お、俺の着て帰りゃいい! ほら、早く!」
待ち切れないと言わんばかりの力也は、なまえの手を引き、一歩また一歩と深みへ向かう。最初は膝、やがて腰へと水位が上がっていく。着たままのTシャツが纏わりついて、気持ちが良いとは言えなかった。
「絶対、離さないでよ……」
「当たり前だ、なまえもちゃんと掴まっとけよ」
言われたなまえは、力也の手をぎゅうと強く握った。力也もその手を強く握り返すと、また一歩を踏み出した。
波は既に胸辺りまで迫ってきていた。力也は砂底を蹴り上げるように沖へと進む。気がつけば、なまえの足元はふわりと浮き、つま先は砂に触れなくなっていた。
「……あ、足、つかない、」
思わず、力也の肩に腕を回す。一瞬驚いた顔をした彼は、不安の滲むなまえの顔を見ると、すぐに彼女の背に手を置いた。
なまえも力也の顔を見やる。目が合うと、彼はニィと笑って言った。
「俺がついてるから、平気だ」
妙に洒落た言いまわしをする力也に、なまえは小さく吹き出した。なんだよ、と力也は眉間に皺を寄せる。なんでもないと言いながら、尚もからかうような笑いを浮かべるなまえを見て、力也はますます眉間の皺を増やした。
「ったく、俺はそんなにチビじゃねぇぞ」
悪態をつきながらも、力也はなまえの背に回した手を決して離しはしなかった。もうあと少し進んだところで、力也は立ち止まる。そして、「見ろよ」と沈みゆく夕日を指さした。
「ほら、こっから見る方が綺麗だろ?」
「うん……きれい、」
横一文字に伸びる水平線に、浅瀬から見るよりも大きく、眩しく照らす夕日が呑まれてゆく。
確かに、ここからの眺めは格別だった。そう伝えようとして、こちらを振り返った彼の顔が、思ったよりも近くにあって驚いた。
きっと頬は赤らんでいたが、それが胸の高鳴りのせいなのか、はたまた夕日のせいなのか、彼に判別はつかなかったはずだ。あの時見た彼の顔が、同様にそうだったから。
◇
台所から流れてくる、空腹をくすぐる匂いで目を覚ます。
盆休みを利用して実家に帰ったとて、特別することはない。皆だいたい同じだろうが、なまえも例外なくその通りであった。手持ち無沙汰に縁側へ寝転がり、そのまま眠りこけてしまったらしい。
硬い床の上に寝たためか、身体を起こして伸びると背骨が引きつった。
伸びのついでに、庭先を通り抜けた風を吸い込む。海にほど近いここで吹く風は、そこはかとなく湿っぽい。潮の匂いが肺を満たし、先ほど見た夢と相まって懐かしさがこみ上げた。
ふと、洗濯物を干すときにでも使うのだろう、縁側の下に揃えられていたサンダルが目に入る。なまえは半ば衝動的に足を通し、台所に立つ母へと声をかけた。
夕飯までには帰ってきなさい。まるで幼子に戻ったかのような注意を背に受けながら、庭を駆け出した。
傾いた陽が伸ばす影を追うように、なまえは道を急ぐ。目的地はそう遠くはない。
ここに立つのは、いつ以来だろう。今、砂に残る足跡はなまえのものだけになってしまったが、幾度となく二人で訪れた穴場の砂浜。それを鑑みても不思議なほどに人っ子一人いないのは、時期を考えれば当たり前のことだった。
盆の海には近づいてはいけない。この辺りの者は、幼い頃から親類に口酸っぱく教えられてきた。海に入れば、帰ってきたものたちに足を引かれると。
昔は得体の知れないそれを想像して恐れ慄いていたものだが、おとなになった今は違う。
波打ち際に足を浸す。返す波が、一歩また一歩と海へ踏み出させた。ざぶ、ざぶ。あがる飛沫を気に留めることもなく、歩みを進める。
子どもならば、迷信を信じて慌てて岸へと戻っただろう。あっという間に波が膝まで這い上がっても、なまえは後には引かなかった。
何故なら、海にはなにもいない。足を引くものも、あの時のように手を引いてくれた彼も。名を呼ぶ彼も、照れくさそうに笑う彼も、なにもいないのだ。
「……盆くらい、帰ってきなよ」
確かに呟いたそれは、波音に飲まれて消えた。当然、返事はない。
ただ一直線に走るだけだった水平線が滲む。その先にあるのは、茜色に輝く夕日がひとつだけ。まるで道を敷くように水面へ一筋伸びる陽光が、波と共にゆらゆらと揺れていた