- 痕を追う -
龍司
急に決まった大阪出張は気が進まなかったが、折角なら蒼天堀近くにホテルを取ってとことん楽しんでやろうと思った。
仕事を片付けた後ホテルのチェックインを済ませ、早々に街へ繰り出す。名物料理に舌鼓を打った
なまえ
の心は出張だと言うことも忘れて満足気に踊っていた。少量だが酒も飲み、少々大きくなった気持ちで歩く街はいっそう煌びやかに見える。
ゲームセンターや飲食店が立ち並ぶ通りは、もう夜も深いというのに活気に満ちていた。
店先で呼び込む店員、飲み会終わりのビジネスマン、大学の友人同士であろう若者たち。たくさんの声が溢れている。
様々な店に目移りをさせながら歩いていた
なまえ
は、急速に場の雰囲気が冷えていくのを感じた。先ほどまで響いていた声も皆息を潜め、視線を一点に集めている。
周囲が見つめる先を追うとそこには、体の大きな人物が大手を振って歩いていた。いわゆる舎弟らしい若い衆を数人連れており、人々は道の端に寄ってそれを避け、彼らに道を開けている。
なまえ
はその人物に心当たりがあった。今でも鮮明に覚えている小学生の頃の思い出。その面影がはっきりと残っており、一目見て彼だと分かった。
声を掛けようと思った訳では無い。アルコールで大きくなった気持ちと旅先での高揚感、久しぶりに見る懐かしい顔に感極まって気がつけば彼の前に立っていただけのことだった。
「あ?なんやねん、お前」
「邪魔や、さっさとどけや!」
後ろに控えていた若い衆が立ちはだかるように前に出て、口々に啖呵を切りはじめる。
恐怖で喉が引きつり、きゅうと切ない音が漏れた。思わず懐かしい顔を見上げたが他と同様に眉間に深い皺を寄せ、端に傷のある口をぎゅっとへの字に結んでいる。
「り、龍司くん…だよね?」
絞り出した声は震えていた。手も足も震えていたかもしれないが、気にする余裕はない。
名前を呼ばれた彼はますます眉間の皺を深めると、低い声で唸るように言った。
「…誰や」
「
みょうじ
、
なまえ
…小学校、い、一緒だった…」
鋭い目だけがギョロリと動いて、
なまえ
を見定めている。蛇に見込まれた蛙とはまさにこのことかと思った。
かたく閉じられた薄い唇に開かれる様子はない。目を逸らすこともできず、
なまえ
はただ浅い呼吸だけを繰り返していた。
「お、覚えてる訳ないですよね!すみません!失礼しました!」
居た堪れなくなり、やっとの思いで
なまえ
は歩いてきた方向へ踵を返す。やはり足も震えていたようで、縺れてうまく歩けなかった。
「待てや」
一歩踏み出した
なまえ
の背中に彼の低く、落ち着いた声が響く。
「
みょうじ
なまえ
、覚えてるわ」
◇
あの日、自分は鍵を忘れて家に入れず、母親が帰る時間まで暇をつぶそうとよく遊ぶ公園に向かった。
そこに行けば大抵誰かしら同級生がいて、時間なんて足りないくらいあっという間に過ぎていくのだ。
その日も数人の同級生がそれぞれ思い思いの遊びに興じており、そこに混じって遊んでいた。
だが皆小学生、門限は早い。日が傾きはじめる前にひとりまたひとりと家に帰ってしまい、あっという間にひとりきりになってしまった。
母親が帰るまでまだしばらく時間があったので、公園に設置されていたベンチに仕方なく腰を下ろす。
そこに彼がやってきたのだった。
隣のクラスの龍司くん。その頃には見かけることはなかったが、以前この公園で一緒に遊んだこともある。髪の毛が金色に光っていて、背が高くて、皆と同じ大きさのはずなのに彼のランドセルはとても小さく見えた。
決して広いとは言えない公園なので、ベンチは隣合う2つのみ。彼が背負っていたランドセルを乱雑に置き、隣のベンチに座る様子を横目で見ていた。
そのあと自分から声をかけたのだったか、彼から声をかけられたのかは覚えていない。
とにかく彼は帰宅後すぐに父親とひどい口論になって、着の身着のまま家を飛び出してきたと言っていた。それで"クミノモン"が追いかけてくるから逃げてここに来たと。
当時は何のことか分からず、父親を怪獣かなにかに例えているのだと思っていた。後に彼がヤクザの息子だと知り、あれは"ヤクザの組の人"という意味だったんだと気がついたんだっけ。
「お前は?なんで帰らんのや」
「鍵忘れてもうて、家入られへんねん。お母さん帰ってくるまでここおる」
「…オカン何時帰ってくんねん」
「たぶんあと1時間くらいちゃうかな」
公園に立てられた背の高い時計を見る。針は17時を少し過ぎたあたりを指していた。
「あーあ、はよ帰ってこんかなぁ」
伸びをしながらそう口にした自分に彼は相槌を打つこともなく、押し黙ってどこか遠くを見つめていた。
それから、暇を持て余した自分はベンチに置いているランドセルの上へ宿題の算数ドリルを広げた。待っている時間に宿題を終わらせてしまえば、帰宅後は全て自由時間。我ながら良い考えだと筆箱から鉛筆を取り出したところで、彼から声をかけられた。
「それ宿題か?」
「うん、今のうちやっとこ思て。一緒やる?」
聞いた彼は算数ドリルと筆箱を取り出すと、同じようにランドセルの上へ乗せた。正直意外だった。だが、担任は宿題をやってこない者がいると烈火の如く怒る先生だったので、彼のクラスもそうなのかもしれないと思った。
「宿題ちゃんとやらな先生めっちゃ怒るやろ?」
「学校じゃ誰もワシに怒ったりせえへん」
背を丸めながらそう言った彼が、ずいぶんと弱々しく見えたのを良く覚えている。今ならその理由も検討がつくが、その時は全く分からなかった。とにかく怒られないのが羨ましかった。
「ええなぁ、なんで怒られへんの?」
「怖いからやろ」
「怖い?龍司くん別に怖ないやん」
先生のが鬼みたいで怖いわとこめかみの横に指を立てて笑って見せれば、彼もまた同じように笑った。
それが嬉しく、距離が縮まったような気がして折角ならと自分はベンチを移動した。彼のランドセルと自分のランドセルを突き合わせ、二つ分のそれを挟んで向かい合う。
そのまましばらくふたりでああでもないこうでもないと四苦八苦しながら算数ドリルを進めたのだった。
宿題を片付け終わった頃、時計はすでに18時付近を指していた。辺りを夕日が照らし、鎮座する遊具からは長い影が伸びている。それがどこか恐ろしく、急に帰りたい気持ちに襲われた。
「そろそろ、お母さん帰ってきてる頃やと思うから…」
「おう、ほなな」
「…龍司くんはまだ帰らへんの?」
「ワシはまだ、ここおる」
先程と同様、大きなはずの彼がとても小さく見えた。放ってはおけない、直感的にそう思って、それで。
「ほなまだ帰られへんわ」
「は?帰れや。オカン心配すんで」
「ほな龍司くんも帰ろ。"クミノモン"が心配して探してくれとんのやろ?」
「組のモンは別に心配してる訳ちゃうやろけど……」
考え込んだ彼がややあってゆっくり首を縦に振ったのを見て立ち上がり、自分のランドセルを背負い直す。
そして隣にある彼の黒いランドセルを掴んで差し出した。
ランドセルを自分から受け取った後、何か言っていた気がするがよく聞き取れなかった。歩幅の大きい彼が公園の出入り口へ歩いていく後ろ姿を追いかけるのに必死だったのだ。
その後自分は小学校卒業と同時に、親の仕事の都合で東京に引っ越した。それから今日まで大阪に戻ることはなかったが、この日の事だけはいつまでも覚えている。
◇
なまえ
は龍司の馴染みだというバーに来ていた。
見るからに家業を継いだと分かる風貌の彼はいわゆる上客らしく、店の扉をくぐるとすぐに奥の個室へと通される。
龍司が慣れた様子で一言二言店員へ言いつけると、ものの十数秒ほどで琥珀色の酒が湛えられたグラスが二つ。そしていかにも高価そうなウイスキーのボトルがテーブルに置かれた。
昔の同級生とはいえ、久しぶりの再会でいきなりふたりきりの空間というのは少々居心地の悪さを感じる。
まさか飲みの席に誘われるとは。思わず声をかけたのは
なまえ
だったが、その先のことはなにも考えていなかったので驚いた。
乾杯を促された
なまえ
は慌ててグラスを手にすると、龍司のそれと合わせる。そして気まずさを流し込むように酒を煽ったのだった。
会話に花を咲かせるふたりの間は、あれよあれよと埋まっていく。上等な酒は当然美味しく、龍司はいかにも関西人らしく話も面白い。
面影は残るものの厳つくなった見た目とは裏腹に、中身はあの日からあまり変わっていないようだと
なまえ
は思った。
「今はどこ住んでんのや?」
「東京だよ、引越してからずっと。だからほら、関西弁もすっかり抜けちゃって」
「あぁ…せやから違和感あったんか。たしかに関西弁で喋ってた気ぃするわ」
「そやで、龍司くんとは関西弁で喋っとったんやで」
「ハッ、なんやほんまに東京人なってもうたんやな」
似非にもほどがあるわと大きな口を開けて豪快に笑う。昔、公園で遊んでいた時のことを思い出す笑顔だった。
「そうだよ、だから東京来たときは連絡してよ」
案内くらいならできるからさ、と得意気に胸を叩いた
なまえ
に龍司は目を細めた。
「来る予定ない?」
「いや、ある。…けど、遊んどるヒマないかも知れへんな」
「そっか…忙しいんだ。まあ、何年後でも待ってるよ」
言うと
なまえ
は取り出した自分の名刺にペンを走らせ、携帯番号とメールアドレスを書き加えるとそれを龍司に手渡す。
受け取った龍司は文字を目で追いかけてからスーツの胸ポケットに収め、気ぃ向いたらなとそっけなく答えて酒に口をつけた。
「…ヤクザに自分から渡すもんとちゃうやろ」
「友だちに渡しただけだよ、龍司くんは悪用したりしないでしょ?」
「知ったような口聞きよって…いつか痛い目見んで」
「そしたら助けてね、龍司くんが東京で痛い目見てたら助けるからさ」
だから絶対連絡してよと付け加えた
なまえ
は悪戯な顔をして笑った。
「…ホンマ変わってへんな、お人好し」
持っていたグラスをテーブルに置く。
そのまま真っ直ぐ
なまえ
を見据え、傷のある側の口端を上げた龍司の顔は穏やかなものだった。
◇
蒼天堀で彼に再会したあの日から、どのくらい月日が経っただろう。5年…いやもっとかもしれない。
あれから教えたメールアドレスにも携帯番号にも、一度として連絡が来ることはなかった。
自分から何年後でもいいと言った手前、連絡が来ない限りアドレスは変えられない。彼にお人好しだと言われたが、確かにそうだと思う。
でもそれも終わりにすると決めた。
近いうちに有給休暇を取って蒼天堀へ行こう。
次に彼と会ったその時は、自分の携帯電話に彼の連絡先を登録するまで帰ってなんてやるもんか。
急に決まった大阪出張は気が進まなかったが、折角なら蒼天堀近くにホテルを取ってとことん楽しんでやろうと思った。
仕事を片付けた後ホテルのチェックインを済ませ、早々に街へ繰り出す。名物料理に舌鼓を打ったなまえの心は出張だと言うことも忘れて満足気に踊っていた。少量だが酒も飲み、少々大きくなった気持ちで歩く街はいっそう煌びやかに見える。
ゲームセンターや飲食店が立ち並ぶ通りは、もう夜も深いというのに活気に満ちていた。
店先で呼び込む店員、飲み会終わりのビジネスマン、大学の友人同士であろう若者たち。たくさんの声が溢れている。
様々な店に目移りをさせながら歩いていたなまえは、急速に場の雰囲気が冷えていくのを感じた。先ほどまで響いていた声も皆息を潜め、視線を一点に集めている。
周囲が見つめる先を追うとそこには、体の大きな人物が大手を振って歩いていた。いわゆる舎弟らしい若い衆を数人連れており、人々は道の端に寄ってそれを避け、彼らに道を開けている。
なまえはその人物に心当たりがあった。今でも鮮明に覚えている小学生の頃の思い出。その面影がはっきりと残っており、一目見て彼だと分かった。
声を掛けようと思った訳では無い。アルコールで大きくなった気持ちと旅先での高揚感、久しぶりに見る懐かしい顔に感極まって気がつけば彼の前に立っていただけのことだった。
「あ?なんやねん、お前」
「邪魔や、さっさとどけや!」
後ろに控えていた若い衆が立ちはだかるように前に出て、口々に啖呵を切りはじめる。
恐怖で喉が引きつり、きゅうと切ない音が漏れた。思わず懐かしい顔を見上げたが他と同様に眉間に深い皺を寄せ、端に傷のある口をぎゅっとへの字に結んでいる。
「り、龍司くん…だよね?」
絞り出した声は震えていた。手も足も震えていたかもしれないが、気にする余裕はない。
名前を呼ばれた彼はますます眉間の皺を深めると、低い声で唸るように言った。
「…誰や」
「みょうじ、なまえ…小学校、い、一緒だった…」
鋭い目だけがギョロリと動いて、なまえを見定めている。蛇に見込まれた蛙とはまさにこのことかと思った。
かたく閉じられた薄い唇に開かれる様子はない。目を逸らすこともできず、なまえはただ浅い呼吸だけを繰り返していた。
「お、覚えてる訳ないですよね!すみません!失礼しました!」
居た堪れなくなり、やっとの思いでなまえは歩いてきた方向へ踵を返す。やはり足も震えていたようで、縺れてうまく歩けなかった。
「待てや」
一歩踏み出したなまえの背中に彼の低く、落ち着いた声が響く。
「みょうじなまえ、覚えてるわ」
◇
あの日、自分は鍵を忘れて家に入れず、母親が帰る時間まで暇をつぶそうとよく遊ぶ公園に向かった。
そこに行けば大抵誰かしら同級生がいて、時間なんて足りないくらいあっという間に過ぎていくのだ。
その日も数人の同級生がそれぞれ思い思いの遊びに興じており、そこに混じって遊んでいた。
だが皆小学生、門限は早い。日が傾きはじめる前にひとりまたひとりと家に帰ってしまい、あっという間にひとりきりになってしまった。
母親が帰るまでまだしばらく時間があったので、公園に設置されていたベンチに仕方なく腰を下ろす。
そこに彼がやってきたのだった。
隣のクラスの龍司くん。その頃には見かけることはなかったが、以前この公園で一緒に遊んだこともある。髪の毛が金色に光っていて、背が高くて、皆と同じ大きさのはずなのに彼のランドセルはとても小さく見えた。
決して広いとは言えない公園なので、ベンチは隣合う2つのみ。彼が背負っていたランドセルを乱雑に置き、隣のベンチに座る様子を横目で見ていた。
そのあと自分から声をかけたのだったか、彼から声をかけられたのかは覚えていない。
とにかく彼は帰宅後すぐに父親とひどい口論になって、着の身着のまま家を飛び出してきたと言っていた。それで"クミノモン"が追いかけてくるから逃げてここに来たと。
当時は何のことか分からず、父親を怪獣かなにかに例えているのだと思っていた。後に彼がヤクザの息子だと知り、あれは"ヤクザの組の人"という意味だったんだと気がついたんだっけ。
「お前は?なんで帰らんのや」
「鍵忘れてもうて、家入られへんねん。お母さん帰ってくるまでここおる」
「…オカン何時帰ってくんねん」
「たぶんあと1時間くらいちゃうかな」
公園に立てられた背の高い時計を見る。針は17時を少し過ぎたあたりを指していた。
「あーあ、はよ帰ってこんかなぁ」
伸びをしながらそう口にした自分に彼は相槌を打つこともなく、押し黙ってどこか遠くを見つめていた。
それから、暇を持て余した自分はベンチに置いているランドセルの上へ宿題の算数ドリルを広げた。待っている時間に宿題を終わらせてしまえば、帰宅後は全て自由時間。我ながら良い考えだと筆箱から鉛筆を取り出したところで、彼から声をかけられた。
「それ宿題か?」
「うん、今のうちやっとこ思て。一緒やる?」
聞いた彼は算数ドリルと筆箱を取り出すと、同じようにランドセルの上へ乗せた。正直意外だった。だが、担任は宿題をやってこない者がいると烈火の如く怒る先生だったので、彼のクラスもそうなのかもしれないと思った。
「宿題ちゃんとやらな先生めっちゃ怒るやろ?」
「学校じゃ誰もワシに怒ったりせえへん」
背を丸めながらそう言った彼が、ずいぶんと弱々しく見えたのを良く覚えている。今ならその理由も検討がつくが、その時は全く分からなかった。とにかく怒られないのが羨ましかった。
「ええなぁ、なんで怒られへんの?」
「怖いからやろ」
「怖い?龍司くん別に怖ないやん」
先生のが鬼みたいで怖いわとこめかみの横に指を立てて笑って見せれば、彼もまた同じように笑った。
それが嬉しく、距離が縮まったような気がして折角ならと自分はベンチを移動した。彼のランドセルと自分のランドセルを突き合わせ、二つ分のそれを挟んで向かい合う。
そのまましばらくふたりでああでもないこうでもないと四苦八苦しながら算数ドリルを進めたのだった。
宿題を片付け終わった頃、時計はすでに18時付近を指していた。辺りを夕日が照らし、鎮座する遊具からは長い影が伸びている。それがどこか恐ろしく、急に帰りたい気持ちに襲われた。
「そろそろ、お母さん帰ってきてる頃やと思うから…」
「おう、ほなな」
「…龍司くんはまだ帰らへんの?」
「ワシはまだ、ここおる」
先程と同様、大きなはずの彼がとても小さく見えた。放ってはおけない、直感的にそう思って、それで。
「ほなまだ帰られへんわ」
「は?帰れや。オカン心配すんで」
「ほな龍司くんも帰ろ。"クミノモン"が心配して探してくれとんのやろ?」
「組のモンは別に心配してる訳ちゃうやろけど……」
考え込んだ彼がややあってゆっくり首を縦に振ったのを見て立ち上がり、自分のランドセルを背負い直す。
そして隣にある彼の黒いランドセルを掴んで差し出した。
ランドセルを自分から受け取った後、何か言っていた気がするがよく聞き取れなかった。歩幅の大きい彼が公園の出入り口へ歩いていく後ろ姿を追いかけるのに必死だったのだ。
その後自分は小学校卒業と同時に、親の仕事の都合で東京に引っ越した。それから今日まで大阪に戻ることはなかったが、この日の事だけはいつまでも覚えている。
◇
なまえは龍司の馴染みだというバーに来ていた。
見るからに家業を継いだと分かる風貌の彼はいわゆる上客らしく、店の扉をくぐるとすぐに奥の個室へと通される。
龍司が慣れた様子で一言二言店員へ言いつけると、ものの十数秒ほどで琥珀色の酒が湛えられたグラスが二つ。そしていかにも高価そうなウイスキーのボトルがテーブルに置かれた。
昔の同級生とはいえ、久しぶりの再会でいきなりふたりきりの空間というのは少々居心地の悪さを感じる。
まさか飲みの席に誘われるとは。思わず声をかけたのはなまえだったが、その先のことはなにも考えていなかったので驚いた。
乾杯を促されたなまえは慌ててグラスを手にすると、龍司のそれと合わせる。そして気まずさを流し込むように酒を煽ったのだった。
会話に花を咲かせるふたりの間は、あれよあれよと埋まっていく。上等な酒は当然美味しく、龍司はいかにも関西人らしく話も面白い。
面影は残るものの厳つくなった見た目とは裏腹に、中身はあの日からあまり変わっていないようだとなまえは思った。
「今はどこ住んでんのや?」
「東京だよ、引越してからずっと。だからほら、関西弁もすっかり抜けちゃって」
「あぁ…せやから違和感あったんか。たしかに関西弁で喋ってた気ぃするわ」
「そやで、龍司くんとは関西弁で喋っとったんやで」
「ハッ、なんやほんまに東京人なってもうたんやな」
似非にもほどがあるわと大きな口を開けて豪快に笑う。昔、公園で遊んでいた時のことを思い出す笑顔だった。
「そうだよ、だから東京来たときは連絡してよ」
案内くらいならできるからさ、と得意気に胸を叩いたなまえに龍司は目を細めた。
「来る予定ない?」
「いや、ある。…けど、遊んどるヒマないかも知れへんな」
「そっか…忙しいんだ。まあ、何年後でも待ってるよ」
言うとなまえは取り出した自分の名刺にペンを走らせ、携帯番号とメールアドレスを書き加えるとそれを龍司に手渡す。
受け取った龍司は文字を目で追いかけてからスーツの胸ポケットに収め、気ぃ向いたらなとそっけなく答えて酒に口をつけた。
「…ヤクザに自分から渡すもんとちゃうやろ」
「友だちに渡しただけだよ、龍司くんは悪用したりしないでしょ?」
「知ったような口聞きよって…いつか痛い目見んで」
「そしたら助けてね、龍司くんが東京で痛い目見てたら助けるからさ」
だから絶対連絡してよと付け加えたなまえは悪戯な顔をして笑った。
「…ホンマ変わってへんな、お人好し」
持っていたグラスをテーブルに置く。
そのまま真っ直ぐなまえを見据え、傷のある側の口端を上げた龍司の顔は穏やかなものだった。
◇
蒼天堀で彼に再会したあの日から、どのくらい月日が経っただろう。5年…いやもっとかもしれない。
あれから教えたメールアドレスにも携帯番号にも、一度として連絡が来ることはなかった。
自分から何年後でもいいと言った手前、連絡が来ない限りアドレスは変えられない。彼にお人好しだと言われたが、確かにそうだと思う。
でもそれも終わりにすると決めた。
近いうちに有給休暇を取って蒼天堀へ行こう。
次に彼と会ったその時は、自分の携帯電話に彼の連絡先を登録するまで帰ってなんてやるもんか。