- 取沙汰 -

大吾(高校生時代)


"学年一位の堂島大吾くんは、親がヤクザ屋さんらしい"

 これは同学年の、あるいは神室西高校の生徒なら誰しもが知っている噂話で、それはみょうじなまえも例外ではない。
 親の職については彼の入学が決まるや否や、在校生の間で囁かれはじめた。その後、試験で優秀な成績を収めた彼をやっかんだ生徒が皮肉を込めて枕詞を足し、今の形に変化したそうだ。
 その噂は、兄弟のいる生徒を介して各学年に広まり、今や皆の知るところとなったのだった。

 高校生活三度目の春、堂島大吾となまえはクラスメイトになった。
とは言え、特別仲が良い訳でも、何か接点がある訳でもない。ただ同じ教室に集められているだけで、せいぜい話すとすれば連絡事項程度のものであった。
 同じ学級に振り分けられた者は、多かれ少なかれ彼を好奇の眼差しで見る。
もちろん、分け隔てない者もいた。だがある者は取り入ろうとごまをすり、またある者はさも気にしていないふりをしながら裏では噂話に興じ、そしてある者は話しかけることさえしようとしなかった。

 一方で堂島大吾は、色眼鏡で見られることに慣れているのか、誰にも等しく接する器量の持ち主であった。噂話さえ知らなければ、利口で大人びた模範的な生徒に見えるだろう。
 時折、重厚な黒塗りの車が、迎えに来ることを除けばだが。





 ある昼休み。なまえは、学校敷地内の隅にある花壇の手入れを任され、体育館横の裏庭へと来ていた。
普段、管理を一任されているのは美化委員であったが、その友人に代理を頼まれたのだ。
 衣替えを数日後に控え、冬季の制服では動けば薄らと汗が滲む時節。面倒だと一度断りはした。しかし、見返りにと購買のメロンパンを差し出されてしまえば、胸を叩く他ないだろう。

 水をやるための設備は、花壇のすぐ脇にあった。
ホースはリールに巻かれておらず、大小様々な円を描いて乱雑に地面へ置かれている。なまえは、先端に取り付けられたシャワーノズルを持ち上げ、とぐろを巻くホースを引いた。
 それに繋がる蛇口は、思いのほか固く締められているようで、捻るには力が必要だった。
思い切り力を込めれば、キュ、と一際高い音が鳴る。途端、流れ出した水がホースに通り、ずしりと重く溜まった。

 花壇の正面に立ち、レバーに手をかけたその時。不意にそばの体育館裏から、人の声が聞こえた。
それは男のもののようであったが、何と言ったのか聞き取るには至らない。人気のないここに、一人きりだと気楽に思っていたなまえは眉をひそめた。
 手にしているシャワーノズルを慎重に地面へ置き、音を立てぬよう差し足で近づく。体育館裏といえば非行か、はたまた愛の告白か。恐る恐るだが若干の期待に胸をふくらませ、そっと声の元を覗いた。

 そこにはひとり、堂島大吾が立っていた。
手元には、弁当箱が入っているであろう包みが揺れている。そして足元には、まだおとなというには小さい猫が一匹。困り顔で見下ろす彼の足にじゃれつき、ぴかぴか光る目で見上げていた。

「…堂島くん?」
思いがけず見知った人物がいたものだから、なまえはついその名を呼んだ。
いきなり呼ばれた方は当然驚き、猫に落としていた視線を勢いよく動かした。それがなまえを捉えると、え、とも、あ、とも取れない声を零し、
「こ、これは…その…」
言いながら、誤魔化すように猫から一歩後ずさる。
そんな彼の困惑をよそに足へと擦り寄った猫は、甘えた声で一言、ニャアと鳴いたのだった。



「前、ここで飯食ってたら、懐かれちまって…」
彼はしゃがみ込み、猫の喉元をするりと撫でる。猫は気持ち良さそうに目を細め、彼の手に頭を擦り付けた。
 同じく隣に腰を下ろしたなまえは、猫には触れず、彼の横顔をそっと盗み見る。
「いつもひとりなんだ、こいつ」
今なお彼に甘えている猫は、ついにはゴロンと横倒れ、右に左に転がった。長い尾が揺れ、時折柔らかく地面を打つ。
「…家族と、はぐれちゃったのかな」
なまえの言葉を聞いた堂島大吾は、少しの沈黙の後「かもな」と短く答えた。あまりにも切なげなそれに、なまえははたと口を噤む。猫をあやす彼の手つきすらも、どこか寂しげに見えた。

「で、みょうじさんは? 何しにこんなとこ、」
黙り込んだなまえに堂島大吾は、さも当然のように名を呼んだ。呼ばれたなまえは、丸くなった目で彼を見る。同様に彼もこちらを見ており、ばちりと目が合った。
「…名前、覚えてくれてるんだ」
「そりゃあ…同じ一組だし。みょうじなまえさん、だろ?」
なまえは咄嗟に目を逸らし、コクリと頷いた。
 言われてみれば確かに、さほど話したことがなくとも同じクラスにいる者の名前くらいは言える。他のクラスメイト相手ならば、気に留めることもなかっただろう。知らず知らずの内、彼に"色"をつけていた自身に、情けなさがこみ上げた。

「そこの…花壇の、水やりに来たんだ」
「ふーん。みょうじさんって、美化委員?」
「ううん、違うけど…代打で今日だけ」
「代打かぁ、やったフリしちまえばいいのに」
「花枯れちゃうよ。それに…メロンパン貰っちゃったし」
「あ、もしかして購買のやつ? うまいよな、あれ」

 俺も好き。自然な流れで、堂島大吾はそう言った。
メロンパンのことだと、もちろん分かってはいる。いるのだが、どことなく気恥ずかしさを覚えたなまえは、誤魔化すように猫へと手を伸ばした。
 手足を投げ出してゆったりと寝転んでいた猫は、伸びてきたなまえの手に驚いたようで、身を翻して立ち上がる。
「あっ…ごめんね」
なまえは即座に謝るが、猫の興味は別に向いていた。立ち上がったそのままの姿勢で、学校敷地を隔てるフェンスを見ている。
なまえも同じくそちらを見ると、フェンス越しにこちらの様子を窺うおとなの猫が一匹。血縁関係があるのだろう、二匹は似た毛色をしていた。

「なんだ…お前、家族いんじゃねぇか」
子猫は堂島大吾の声に、振り返ることなく歩き出す。フェンスの狭い隙間をくぐり抜けて、迷わず母猫の元へ。子猫は母猫にすり寄り、母猫は子猫の頬を咎めるように二度舐めた。
「あんまり母ちゃんのこと、困らせんなよ」
彼のその言葉が届いたのかは分からないが、子猫はこちらを一瞥した後、ゆっくり一度目を閉じた。そして、すでに歩き出していた母猫を追って駆け出していく。

 猫たちはあっという間に見えなくなり、体育館裏には二人だけが残る。しばしの沈黙の後、堂島大吾はゆっくりと立ち上がった。
「俺も、そろそろ行くわ」
じゃあな、と踵を返した彼の、よく手入れされたスラックスが目に入る。その裾には、先ほどまで擦り寄っていた猫の毛が張り付き、ふわふわと風に揺れていた。
「堂島くん、足に…」
同じく立ち上がったなまえは、歩みを進める彼を呼び止め、足元を指す。それを見た堂島大吾は、全く憤りの感じられない声色で恨み言を呟いた。
「やりやがったな、あいつ…」
言葉とは裏腹に、どこか優しさが滲む声色だった。
誰にも等しく接する彼は、猫にもそうらしい。裾を払う彼を見ながらなまえは、思わずクスリと笑みを零す。
 堂島大吾は手早く毛を落とし、持ち上げていた足を下ろした。その後、なまえに背を向けかけてから、ふと振り返り──
「ありがとな」
歯を見せてニッと笑ったのだった。

 弁当箱の包みを揺らしながら、ポケットに片手を入れて歩く背中が見えなくなる。
去る猫を見送る彼の、どこか羨ましげにも悲しげにも見える瞳が脳裏に焼き付いて離れない。初めて見る年相応の笑顔も、また同じだった。
 彼は誰かを傷つけるようなことはしていない。むしろ身勝手に彼を妬んで、蔑み、傷つけているのはこちらではないか。

 なまえは発起して花壇に戻り、蛇口を開けたまま放置していたシャワーノズルを手に取った。途端、ノズルの穴から滴った水が手を濡らす。それに構うことなくレバーを強く握ると、花壇に水が降る。
 この言いようのない淀みも、火照りも、一緒に流れてしまえばいい。満遍なく揺り動かすと、濡れた花弁や葉に陽が反射してキラキラと光る。なまえはそれに目が眩み、その下の土が次第に色濃く、じっとりとした湿り気を帯びていく様を眺めていた。





 今年の夏季休暇は、全校生徒にとって思い出深いものだった。
というのも、神室西高野球部が悲願の甲子園出場を果たしたのだ。
初戦敗退という悔しい結果ではあったが、夢の大舞台でホームランを打ち取った学友。その勇姿を見て、皆が沸き立った。

 新学期が始まってしばらく、野球部一色の学内。
そこには、依然として登校しない堂島大吾に気を留める者は、ごく少数しかいない。
 そして、甲子園の話題が下火になった頃、彼についてまた新たな噂が流れはじめるのだ。

"学年一位だった堂島大吾くんは退学になったらしい"

 はじめは事実を語るだけだった噂には、人から人へと渡るうち、好き放題尾ひれがつけられた。原型をとどめていない噂話も、先の噂が手伝ってまことしやかに語られる。中には心ない言葉も飛び交い、聞くに堪えられるものではなかった。
 師であるはずの教員も、それを咎めることはしない。知らぬ存ぜぬを突き通し、ここにいない彼を腫れ物扱いしていることは明白であった。
誰ひとりとして彼自身を知らず、知ろうともしないのだ。

 だが、みょうじなまえだけは知っている。
堂島大吾が体育館裏へひとり遊びに来る猫に自身を重ね、心を痛めていたことを。
 ただ稀有な家柄に生まれただけの、自分たちと何ら変わりのない、幼い顔で笑う高校生であったということを。