- Introduction -

大吾


 定例の会議を終えた大吾は、会長室の窓から見える空を眺めていた。次第に夜の気配を深めてゆくそれに、部屋は橙色に染められている。薄く広がる雲は同色に、近隣のマンションには、一つまた一つと明かりが灯った。
 彼はジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、慣れた手つきでそれに火を点ける。深く吸い込んだ煙を吐き出すのと同時に、ため息が漏れた。この心もとない夕映えの景色は、いつだって人をさみしく孤独な気持ちにさせるのだ。
 腕に巻いている時計を一瞥し、また一つ息を落とす。時折吹く風が冷ややかに感じられる、今日この頃。日も随分と短くなったものだが、沈みきるにはもう少し時間が必要だった。

「大吾、久々飲み行こうや」
掛けられた声に、大吾が窓の外から視線を移せば、珍しくスーツを着込んだ真島が目に入る。応接用に置かれた黒い革張りのソファに深く腰掛ける真島は、かっちりと締められていたはずの首元を寛げていた。
 真島の向かいに座る冴島もまた同じく、ネクタイを解いている。彼は、真島から送られた目配せに、ひとつ力強く頷いた。

「兄弟と三人で、どや?」
「すみません、今日は予定が…」

 大吾は言いながら、先ほど確認したばかりの時計を見た。針などろくに動いていないと分かりきっているのに、逸る気持ちがそうさせた。
 手にしている煙草は短くなってもなお、淡く煙をくゆらせている。浮ついた心を静めるよう、それを灰皿へと押しつけた。

「あ? なんやねん、人がせっかく…」
「無理強いはあかんで、兄弟」

 ぶつぶつと恨み言を並べる真島に、冴島が語気を強める。
諌められた真島は、つまらんと鼻を鳴らし、ソファにふんぞり返った。彼は背もたれに肘を乗り上げ、そのまま数秒天を仰いだ。
──かと思えば、反らしていた頭を勢いよくもたげて、前かがみの姿勢に。膝に置かれた腕の先では、考え込むようにゆるく両の手が組まれていた。
 また数秒の思案。その後、床に落とされていたひとつの眼を、鋭く大吾へ向けて口を開いた。
「…女か?」
突然のことに、いやだの、そのだの、大吾は曖昧な言葉を返すばかり。助け舟を期待して冴島を横目で見やるが、当ては外れ、真島と同様にふたつの眼が大吾を見つめるだけだった。

「あれやろ? なまえチャン、やったか?」
お前最近お熱やもんなぁ、口の端を歪め、真島は意地の悪い笑顔を浮かべた。図星であったが、素直に"はい"と答えるのはうら恥ずかしい。
「…別に、なまえさんは、そういうんじゃないですよ」
そっけなく答え、大吾は冴島の隣に腰を下ろした。
対面した大吾の顔を、真島は自身の膝に頬杖をつき、じぃと見つめる。見込まれた大吾は、眉を寄せることしかできなかった。
「嘘こけ、顔にハッキリ書いてあんで」
なまえチャンが好きですーいうてな、そんなわけないでしょう、いいや俺には分かる、なにが分かるってんですか、押し問答を続ける大吾と真島。
 冴島は先とは違い、真島を咎めない。
それに気を良くしたのか真島は、突如、満面の笑みを携えて立ち上がった。良いことを思いついたと言わんばかりの彼は、声高らかに一言。

「女の落とし方なら、俺に任しとき!」





「そこで、こうや」

 真島は変わらずソファに座る冴島の横に立ち、下ろされていた手を掬い取る。しなやかな所作は、さながら社交場でのエスコートのようだった。
 以前に、蒼天堀でキャバレーの支配人をしていたことがあると聞いたが、こんな具合だったのだろうか。普段の言動からは考えられないほど自然で様になっており、大吾には真島がいつになく大人に見えた。

「何やさっきから…気色の悪いことすなや」
「あぁ? かわいい大吾チャンのためやろが! ちっとは協力せんかい!」

 言いながら真島は、眉間に深く皺を寄せた冴島の手を乱暴に振り払う。続けて、女は手を引かれるのが好きなのだと自説を述べ、口の端をますますつり上げてヒヒヒと笑った。

 真島の宣言通りに始まった即席の講座は、歯の浮くようなセリフや、フィクションの中でしか見たことがない仕草の数々であった。きっと最近、映画か何かで見たのだろう。
 面白そうだと思ったことには、すぐに手を出したがる。突飛な行動や言動から、困らされることは日常茶飯事だ。
だが、煮え切らない自分を応援する気持ちも、少なからずあるのだと思うと悪い気はしなかった。若輩者の自分にとって、こうして支えとなってくれる人物の存在は、何より貴重でありがたい。とは言え──

「いくらなんでも、やりすぎじゃないですか? 日常的でないというか…」
「いつもとちゃうんがええんや」

 あからさまな作り声で真島が言う。煙草とライターを手に取った彼は、咥えた一本に火をつけ、露骨に気取って煙を吐きだした。
 これもきっと何かの真似だろうが、気にしたところで今更だ。大吾は何も返さず、いつもより白く烟るそれを目で追った。

「みーんな"普通"には飽き飽きしとんねん、せやろ?」
「"普通"て…極道モンが何言うとんねん」
「うっさいわボケ! 今ええとこやろが!」

 鼻で笑った冴島に真島が食ってかかり、今度はふたりの押し問答が始まった。





 護衛役に車を回させた頃には、外はすっかり闇に飲まれていた。
本当は一人で向かいたいところだが、立場上そうもいかない。彼女の身のためにも、仕方がないと言い聞かせ、大吾は後部座席へ乗り込んだ。

 ゆるやかに発進した車内。大吾の頭の中では、先の真島とのやりとりが反芻していた。
 彼の暇つぶしに揶揄われるなど、よくあること。平常なら致し方ないと流せる出来事も、今回ばかりは口惜しかった。交流を持つようになってしばらく、これといって進展のないなまえとの関係に焦れているのは事実なのだ。
 迷い、葛藤、駆け引き。裏社会では数多く経験していることに、まさかプライベートでも悩まされることになるとは、思ってもみなかった。しかも、こちらの方が幾分か手強いのだから、由々しき事態である。

 一人であれこれと考えていると、集合場所として指定したミレニアムタワーが近づく。
そう多くない人波の中、既にそこへ到着していたなまえが見えた。彼女は時折落ち着かない様子で、周囲を見回している。自分を探すその姿に、うっかり口許が緩んだ。
 車は路肩に停まる。なまえを出迎えようとする護衛役を制し、代わって大吾が後部座席から降りた。もちろん、口許は結び直して。
 向き直って扉を閉め、改めてなまえを見やる。すると、大吾に気がついたなまえは、顔を綻ばせ、小さく頭を下げた。

なまえさん、すみません…お待たせしてしまいましたか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

 優しげに下りたなまえの眼尻に、鈴を転がすようなその声に、先ほどまで頭の中を占領していたはずのやりとりが霧散していく。気の利いた言葉のひとつでも言いたいが、真島は何と言っていただろうか。
 思い返しても探り当てることはできず、ややあって発した言葉は至極ありきたりなものだった。
「それなら良かったです……行きましょうか」
言って大吾は、なまえの手を引っ掴んだ。衝動的で、真島のようなスマートさは微塵もない。あ、と小さな声が聞こえたが、それを気にする余裕すらもない。

 やはり、長いこと外で待たせてしまったのか。それとも、慣れないことをする自身の手が、ひどく熱くなっているのか。触れているなまえの手は、ひやりと冷たく感じられた。
 繋がれた手に意識が向いた途端、頬に、耳に、熱が集まる。顔を合わせることはできず、足早に待たせている車へと歩みを進めた。

 大吾は後部座席のドアを開き、なまえに座るよう促した。言われるがまま、奥へ詰めたなまえの隣に自身も座る。
 狭い空間にいるからか、手を取り触れ合っていたはずの先ほどよりも近くに感じた。心臓からは次々と熱が回る。大吾は火照りを悟られまいと、窓の外を見るともなく見た。
 同じくしてなまえも、俯いて目を伏し、手は膝上。先ほど大吾に触れられたそれを、もう片方で握りしめていた。

 加速する車は、ギラギラと光る神室町のネオンライトを遠ざけてゆく。低く唸るエンジン音だけが響く車内で、先に口を開いたのはなまえだった。
「…その、先ほどは、」
握りしめる力を強めるなまえに、言わんとしていることを察したのは大吾だった。
「驚かせてしまってすみません…急に、あんな…」
 大吾は二の句を継がせまいと、矢継ぎ早に言葉を並べた。それをなまえは徐に制し、思いがけないことが嬉しかったと、尻すぼみに小さくなる声で続ける。
なまえにしては力強いその言葉に、大吾は一瞬目を丸め、不安げに下がっていた眉を持ち上げた。

「それなら、良かったです…想像通りとはいきませんでしたけど…」
後頭部を擦り、大吾は自嘲気味に笑う。それを見たなまえも、柔らかな微笑みを彼へと向けた。
「…じゃあ、改めてお願いしてもいいですか?」
さっきのは練習ということにしましょう、となまえは膝上で固く握りしめていた手を解いた。
 大吾の視線は、差し出されたなまえの手と顔を往復する。
自身のものよりひと回りも小さい、綺麗に整えられた指先がいじらしい。瞳は往来するヘッドライトで煌めき、瞬きのたびに揺れていた。
 大吾は拗れていた自分が急に馬鹿らしく思え、真島がしていたように精一杯澄まし込むと、努めて優しくなまえの手を取った。重なる手はじくじくと脈を打つ。早る鼓動が伝わってしまうのではないかと、色めき立つのはお互い様だ。

 二人を乗せた車は夜を走る。目的地には、今に到着するだろう。