- コールミー -
東
東とデートの約束がある。そう思っているのは私だけなのだが、それはこの際置いておく。
煮え切らないこの関係性に名をつけるなら、所謂ただの飲み仲間。今夜はたまたま、他の面々は予定が合わず、二人きりだというだけだった。
「食いたいもんあるか?」と聞かれたので、「焼肉」と答えた。店を韓来に指定されたので、こちらの仕事が終わり次第シャルルに出向くと言えば、それは拒否された。
彼曰く、職場に女連れ込むような店長だと思われんのは御免、らしい。原文ママ。
「女だと思ってくれてるんだ」と揶揄えば、「男には見えないだろ」と返された。そりゃあそうだが、そうじゃない。
はぐらかされたのか、本気で言っているのかは分からない。でも、心底不服そうな顔をしていたので、後者の可能性が高そうだった。
そんな経緯があり、今は神室町ヒルズのベンチに座って彼を待っている。大通りから外れたここは、人の往来はあるものの密やかだった。闊歩するのは、仕事を終えたサラリーマンやOLたち。それを見るともなく眺めながら、彼を待つ。
韓来では何を食べようか、二軒目はどこへ。折角二人きりなのだから、いつもとは趣向を変えるのも良いかもしれない。頭を埋め尽くすのは、今後の展開ばかりだった。だから──
「あの、今って…お暇ですか?」
突然声をかけられて、驚いた。
目の前に背を屈めて立っているのは、スーツを折り目正しく着た男性だった。一目見れば、気を遣っていると分かる身なりの彼は、こちらの顔を覗き込んで返答を待っている。
「あ、いえ…人を、待っていて…」
私のその一言に、男性は眉を下げる。好感の持てない三文字が頭を過ぎるが、そう判断するだけの嫌らしさがなかった。
「もしかして、彼氏…ですか?」
「…では、ないんですけど、」
そうなってほしい人です。これは、目の前の彼に言っても仕方がないだろうと飲み込んだ。
よくある少女向けの漫画なら、それを口にしている最中、想い人が現れて…なんて、そんな展開もあるのだろう。だが神室町には、駆けてくる王子様なんて居ない。
居るのは、今夜に賭ける私と、そうとは知らずに声を掛ける男性と、特に気にかける様子のない通行人くらいのものだった。
「それなら、その…よければ、連絡ください!」
「えっ!? いや、それは、」
男性はペンを走らせた紙切れを押し付けるように手渡し、待ってますから、と一言付け加え、そそくさと立ち去った。
しばらくその背中を呆然と見送ったあと、渡された紙切れに視線を落とす。そこには、外見と同じく折り目正しい筆跡で書かれた電話番号と、彼のものであろう名前が並んでいた。
連絡する気は毛頭ないが、昨今はアプリやインターネットなど、出会いの場も様々だ。直接やりとりをする分、こちらの方が幾分か健全なのかもしれない。
そんなことを取り留めもなく考えながら、羽織るジャケットの胸ポケットへそれを収めた。
東と合流したのは、それからもう少々経った後のことである。季節柄、暑くも寒くもないが、二度と声を掛けられることもなく、ただ手持ち無沙汰だった。
街灯から少々離れ、影の落ちるベンチで当てもなくスマートフォンを撫でていたところに、東が現れた。急いた様子に、先ほど思い浮かべた少女漫画のシーンが頭を掠める。
「悪ぃ、待たせたか?」
「うん…待った」
「すまん、ちょっと立て込んでてよ…」
「じゃあ今日は、遅刻した東の奢り?」
「そこまで遅れちゃいねぇだろ…いつも通り、割り勘だ」
いつも通り。私にとっての今夜は"いつもの"ではないのだが、東にとってはそうらしい。やはり先述のあれは、はぐらかした訳ではないのだろう。
落胆するこちらの気も知らず、歩き出した東を追う。手にしていたスマートフォンは、胸ポケットへ押し込んだ。
ここから韓来は目と鼻の先。正面ではなく、脇道から繋がる自動ドアを抜け、階段を上がる。会話は特になかった。
店内に一歩足を踏み入れれば、すかさず店員にテーブル席へ案内された。探偵事務所の二人を交え、四人で来た際には隣り合うことが多く、向かい合って座るのはなんだか落ち着かない。
「飲みもんは、ビールでいいよな?」
落ち着き払ってメニューを眺める東が問う。うん、と短く返事をすれば、食いたいもんあるか?と閉じられたそれを渡された。
張り付いたビニール製のページをめくる。二度繰り返したところで、あるページに手が止まる。そのまましばらく悩んでいると、痺れを切らした東に声をかけられた。
「なに迷ってんだ?」
「ユッケジャンクッパ、食べたいかもなって」
「食いたいなら、頼めばいいだろ」
「うーん…でも今日、海藤さんいないし、」
やめとく、言ってパタンと閉じたメニューを東に返す。何処となく複雑な表情をした東は、黙ってそれを受け取った。
「じゃあ、適当に頼むからな」
言いながら手を挙げて店員を呼び、流れるように注文を告げた。私はというと、彼が先ほど見せた表情の意味を、どう受け取ったら良いものか。そればかりが気になっていた。
少々して、なみなみと注がれたビールジョッキが二つと、皿に盛られた肉が運ばれてくる。手短に乾杯をし、肉を焼く。焼ける音と、漂う匂いだけでもビールがよくすすんだ。
続々と運ばれて来る肉に舌鼓を打っていると、店員がまた皿を運んできた。今度は平皿ではない、深く、例えばスープが入るような。店員がテーブルにそれを置き、続けて言った。
「お待たせしました、ユッケジャンクッパです」
驚いて、東の顔を見る。ぱちりと目が合った気がしたが、すぐに顔ごと逸らされた。
「勘違いすんなよ、俺が食いたかっただけだ」
「…東って、本当に優しいよね」
「うるせぇ、分けてやらねぇぞ」
東は憎まれ口を吐きながらも、供された小碗にクッパを分け取ってくれている。緩んだ頬もそのままに彼を眺めていたら、焦げるから肉を焼けと怒られた。
慌ててトングを掴み、網の上でじゅうじゅうと音をたてる肉をひっくり返す。
「今日、なんで海藤さんたち来れなくなったの?」
「急ぎの案件だとよ…兄貴から連絡なかったのか?」
「え、うん…なかったと思うけど…」
言いながら、胸ポケットからスマートフォンを取りだした。それと同時に、はらりと何かがテーブルに落ちる。
「なんか、落ちたぞ」
こちらが気がつくより先にそれに目をやった東は、小碗を私の前に滑らせながら言った。
東の言葉に落ちたものを見る。それは、先ほど渡された、連絡先の書かれた紙切れだった。
「あ…さっき、もらったやつ」
「さっき…?」
「ナンパ、かな? よかったら連絡してって」
紙を拾い上げ、ほら、と折りたたまれていたそれを開いて中を見せる。東は書かれている電話番号と名前を目でなぞり、眉根をぎゅっと寄せた。
「…どう考えても、ナンパだろ」
「でもなんか、紳士的だったよ」
「ナンパしてくる野郎に、紳士なんかいねぇ」
「そうかな? 強引に今から付き合えーとか言ってこなかったし、そういう出会いも今どきはあるのかも…」
紙に書かれた文字を見る。声を掛けるのが私でなければ、この声かけは成功したかもしれない。そう思えるほど、印象だけは良かったのだ。
私が手放したトングを東が持ち直す。網に乗せた肉は、尚もじりじりと焼かれ続けていた。
「…なんだ? 随分と好みの男だったらしいな」
「別に、そうじゃないけどさ、」
「そんなもん今すぐ燃やしちまえ、ほら」
東はロースターの縁に、トングをカチカチと当てた。今すぐここに紙を放り込めということらしい。彼らしからぬ強引な要求に少し戸惑った。
「えっ、肉についちゃうよ」
「…やっぱり、好みだったんだろ?」
「ち、違うってば…家で捨てるから…」
煮え切らない返答が気に食わなかったのか、東は分かりやすくため息をつく。
それから、適度な焼き色のついた肉を自身の皿に運び、反対に焦げつきの強い肉を私に寄こした。よりにもよって、レモンだれの入った皿へ直接。
「あっ、カルビはタレが良かった!」
「レモンでも旨ぇよ」
ふてくされた東の言葉に、渋々レモンに浸かったカルビを口へ運ぶ。脂の多い肉質に爽やかな酸味が足され、確かに美味しかった。
◇
「ご馳走様、本当にいいの?」
「いいって…何回も言ってんだろ」
食事を終え、揃って階段を降り、正面入口の自動ドアをくぐる。
割り勘だと言われていたが、結局東が全額出してくれていた。くれていた、というのは私がお手洗いに立った隙に、支払いを済ませていたからだ。スマートな行いに、不覚にもキュンとした。
「じゃあさ、二軒目は私が奢るよ」
「…いや、俺ぁもう帰る」
「えっ、なんで? いつも行くじゃん、行こうよ、二軒目」
こんな時ばかり、"いつも"を出してしまうのが情けなかった。あんなにも、常例を拒んでいたはずなのに。
東はしばし考え込んだあと「今日は帰る」と、背を向けた。あとすぐに、顔だけでこちらを見て言う。
「…そんなに飲み足りねぇなら、電話してみたらどうだ?」
俺と違って紳士的な男なら、来てくれるんじゃねぇのか?
彼は挑発するように、粗雑な物言いで続けた。
「……わかった」
また踵を返した彼の背中を見送りながら、スマートフォンを取り出し、連絡先の一覧を開く。
何度か下から上に指を滑らせると、お目当ての名前が目に入った。迷うことなくそれに触れれば、画面は呼出中の画面へと切り替わる。
画面から東に視線を移すと、その後ろ姿が少しずつ遠ざかっていく。かと思えば、不意に立ち止まり、胸元を探りだす。
そこからスマートフォンを取り出した彼は、こちらを勢い良く振り返り、呆れた顔でそれを耳に当てた。
「おい、」
「まだ、帰んないでよ」
電話口から聞こえる、東の声を遮って話し出す。
互いに向かい合い、顔は見えているのに、声はスマートフォンを通さなければ聞こえない。
いつもは騒がしいと感じるばかりの神室町の雑踏が、今だけは有り難かった。面と向かっては憚られることも、これならば、あるいは。
「もうちょっと…一緒にいようよ」
「なんでわざわざ、電話してくんだよ」
「…電話してみろって言ったの、そっちでしょ」
「そりゃ言ったが…俺にしろとは言ってねぇ」
はぁ、とわざとらしいため息が耳に届いた。目の前では、こちらもわざとらしく肩をすくめている東がいた。私は変わらず、人波の中に立つ彼をまっすぐ見つめたままだ。
「そうだけど、でも、」
「…でも、なんだよ」
「ひ、東がいいの! 他の人じゃなくて…って、言わなきゃ分かんない?」
何か言いかけた東をまた遮って、通話を切った。
勢いに、焦っていたのもある。街ゆく人々もこちらを見ている気がした。いや、見ていた。そのくらい、大きな声だった。多分、スマートフォンを通さなくても、彼に届くほど。
雑踏は煩いはずなのに、東の革靴が近づく音がやけに響いていた。彼が一歩近づく度に、心臓もより煩く跳ねる。
「お…お前、バカか? そんなデケェ声で、」
「バ、バカはそっちでしょ!」
売り言葉に買い言葉で、面映ゆさを誤魔化す。
いつもなら東がそれに乗り、八神さんか海藤さんが仲裁に入るが今日は違った。二人がいないのは勿論だが、そうではなく、彼が。
「……いや、お互い様か」
「なにが…」
「お前も言わなきゃ、分かんねぇからだよ」
ふい、と顔を逸らされる。夜にも関わらずサングラスで隠された瞳は、良く見えやしないのに。むしろ、仄かに赤らんだ耳がこちらに向いていて、熱が移りそうだ。
「ほら、なにボサッとしてんだ、行くぞ」
「えっ、どこに?」
「…二軒目、お前の奢りなんだろ?」
目的地も決めず、足早に歩き出した彼の背を今度は追いかける。追いついた先で、ジャケットの袖を何も言わずに掴んだ。それでも、ポケットに閉じこもったままの手が彼らしい。
やはり、ここに王子様はいない。言葉にしなければ伝わらない、不器用な男と女がいるだけだ。
東とデートの約束がある。そう思っているのは私だけなのだが、それはこの際置いておく。
煮え切らないこの関係性に名をつけるなら、所謂ただの飲み仲間。今夜はたまたま、他の面々は予定が合わず、二人きりだというだけだった。
「食いたいもんあるか?」と聞かれたので、「焼肉」と答えた。店を韓来に指定されたので、こちらの仕事が終わり次第シャルルに出向くと言えば、それは拒否された。
彼曰く、職場に女連れ込むような店長だと思われんのは御免、らしい。原文ママ。
「女だと思ってくれてるんだ」と揶揄えば、「男には見えないだろ」と返された。そりゃあそうだが、そうじゃない。
はぐらかされたのか、本気で言っているのかは分からない。でも、心底不服そうな顔をしていたので、後者の可能性が高そうだった。
そんな経緯があり、今は神室町ヒルズのベンチに座って彼を待っている。大通りから外れたここは、人の往来はあるものの密やかだった。闊歩するのは、仕事を終えたサラリーマンやOLたち。それを見るともなく眺めながら、彼を待つ。
韓来では何を食べようか、二軒目はどこへ。折角二人きりなのだから、いつもとは趣向を変えるのも良いかもしれない。頭を埋め尽くすのは、今後の展開ばかりだった。だから──
「あの、今って…お暇ですか?」
突然声をかけられて、驚いた。
目の前に背を屈めて立っているのは、スーツを折り目正しく着た男性だった。一目見れば、気を遣っていると分かる身なりの彼は、こちらの顔を覗き込んで返答を待っている。
「あ、いえ…人を、待っていて…」
私のその一言に、男性は眉を下げる。好感の持てない三文字が頭を過ぎるが、そう判断するだけの嫌らしさがなかった。
「もしかして、彼氏…ですか?」
「…では、ないんですけど、」
そうなってほしい人です。これは、目の前の彼に言っても仕方がないだろうと飲み込んだ。
よくある少女向けの漫画なら、それを口にしている最中、想い人が現れて…なんて、そんな展開もあるのだろう。だが神室町には、駆けてくる王子様なんて居ない。
居るのは、今夜に賭ける私と、そうとは知らずに声を掛ける男性と、特に気にかける様子のない通行人くらいのものだった。
「それなら、その…よければ、連絡ください!」
「えっ!? いや、それは、」
男性はペンを走らせた紙切れを押し付けるように手渡し、待ってますから、と一言付け加え、そそくさと立ち去った。
しばらくその背中を呆然と見送ったあと、渡された紙切れに視線を落とす。そこには、外見と同じく折り目正しい筆跡で書かれた電話番号と、彼のものであろう名前が並んでいた。
連絡する気は毛頭ないが、昨今はアプリやインターネットなど、出会いの場も様々だ。直接やりとりをする分、こちらの方が幾分か健全なのかもしれない。
そんなことを取り留めもなく考えながら、羽織るジャケットの胸ポケットへそれを収めた。
東と合流したのは、それからもう少々経った後のことである。季節柄、暑くも寒くもないが、二度と声を掛けられることもなく、ただ手持ち無沙汰だった。
街灯から少々離れ、影の落ちるベンチで当てもなくスマートフォンを撫でていたところに、東が現れた。急いた様子に、先ほど思い浮かべた少女漫画のシーンが頭を掠める。
「悪ぃ、待たせたか?」
「うん…待った」
「すまん、ちょっと立て込んでてよ…」
「じゃあ今日は、遅刻した東の奢り?」
「そこまで遅れちゃいねぇだろ…いつも通り、割り勘だ」
いつも通り。私にとっての今夜は"いつもの"ではないのだが、東にとってはそうらしい。やはり先述のあれは、はぐらかした訳ではないのだろう。
落胆するこちらの気も知らず、歩き出した東を追う。手にしていたスマートフォンは、胸ポケットへ押し込んだ。
ここから韓来は目と鼻の先。正面ではなく、脇道から繋がる自動ドアを抜け、階段を上がる。会話は特になかった。
店内に一歩足を踏み入れれば、すかさず店員にテーブル席へ案内された。探偵事務所の二人を交え、四人で来た際には隣り合うことが多く、向かい合って座るのはなんだか落ち着かない。
「飲みもんは、ビールでいいよな?」
落ち着き払ってメニューを眺める東が問う。うん、と短く返事をすれば、食いたいもんあるか?と閉じられたそれを渡された。
張り付いたビニール製のページをめくる。二度繰り返したところで、あるページに手が止まる。そのまましばらく悩んでいると、痺れを切らした東に声をかけられた。
「なに迷ってんだ?」
「ユッケジャンクッパ、食べたいかもなって」
「食いたいなら、頼めばいいだろ」
「うーん…でも今日、海藤さんいないし、」
やめとく、言ってパタンと閉じたメニューを東に返す。何処となく複雑な表情をした東は、黙ってそれを受け取った。
「じゃあ、適当に頼むからな」
言いながら手を挙げて店員を呼び、流れるように注文を告げた。私はというと、彼が先ほど見せた表情の意味を、どう受け取ったら良いものか。そればかりが気になっていた。
少々して、なみなみと注がれたビールジョッキが二つと、皿に盛られた肉が運ばれてくる。手短に乾杯をし、肉を焼く。焼ける音と、漂う匂いだけでもビールがよくすすんだ。
続々と運ばれて来る肉に舌鼓を打っていると、店員がまた皿を運んできた。今度は平皿ではない、深く、例えばスープが入るような。店員がテーブルにそれを置き、続けて言った。
「お待たせしました、ユッケジャンクッパです」
驚いて、東の顔を見る。ぱちりと目が合った気がしたが、すぐに顔ごと逸らされた。
「勘違いすんなよ、俺が食いたかっただけだ」
「…東って、本当に優しいよね」
「うるせぇ、分けてやらねぇぞ」
東は憎まれ口を吐きながらも、供された小碗にクッパを分け取ってくれている。緩んだ頬もそのままに彼を眺めていたら、焦げるから肉を焼けと怒られた。
慌ててトングを掴み、網の上でじゅうじゅうと音をたてる肉をひっくり返す。
「今日、なんで海藤さんたち来れなくなったの?」
「急ぎの案件だとよ…兄貴から連絡なかったのか?」
「え、うん…なかったと思うけど…」
言いながら、胸ポケットからスマートフォンを取りだした。それと同時に、はらりと何かがテーブルに落ちる。
「なんか、落ちたぞ」
こちらが気がつくより先にそれに目をやった東は、小碗を私の前に滑らせながら言った。
東の言葉に落ちたものを見る。それは、先ほど渡された、連絡先の書かれた紙切れだった。
「あ…さっき、もらったやつ」
「さっき…?」
「ナンパ、かな? よかったら連絡してって」
紙を拾い上げ、ほら、と折りたたまれていたそれを開いて中を見せる。東は書かれている電話番号と名前を目でなぞり、眉根をぎゅっと寄せた。
「…どう考えても、ナンパだろ」
「でもなんか、紳士的だったよ」
「ナンパしてくる野郎に、紳士なんかいねぇ」
「そうかな? 強引に今から付き合えーとか言ってこなかったし、そういう出会いも今どきはあるのかも…」
紙に書かれた文字を見る。声を掛けるのが私でなければ、この声かけは成功したかもしれない。そう思えるほど、印象だけは良かったのだ。
私が手放したトングを東が持ち直す。網に乗せた肉は、尚もじりじりと焼かれ続けていた。
「…なんだ? 随分と好みの男だったらしいな」
「別に、そうじゃないけどさ、」
「そんなもん今すぐ燃やしちまえ、ほら」
東はロースターの縁に、トングをカチカチと当てた。今すぐここに紙を放り込めということらしい。彼らしからぬ強引な要求に少し戸惑った。
「えっ、肉についちゃうよ」
「…やっぱり、好みだったんだろ?」
「ち、違うってば…家で捨てるから…」
煮え切らない返答が気に食わなかったのか、東は分かりやすくため息をつく。
それから、適度な焼き色のついた肉を自身の皿に運び、反対に焦げつきの強い肉を私に寄こした。よりにもよって、レモンだれの入った皿へ直接。
「あっ、カルビはタレが良かった!」
「レモンでも旨ぇよ」
ふてくされた東の言葉に、渋々レモンに浸かったカルビを口へ運ぶ。脂の多い肉質に爽やかな酸味が足され、確かに美味しかった。
◇
「ご馳走様、本当にいいの?」
「いいって…何回も言ってんだろ」
食事を終え、揃って階段を降り、正面入口の自動ドアをくぐる。
割り勘だと言われていたが、結局東が全額出してくれていた。くれていた、というのは私がお手洗いに立った隙に、支払いを済ませていたからだ。スマートな行いに、不覚にもキュンとした。
「じゃあさ、二軒目は私が奢るよ」
「…いや、俺ぁもう帰る」
「えっ、なんで? いつも行くじゃん、行こうよ、二軒目」
こんな時ばかり、"いつも"を出してしまうのが情けなかった。あんなにも、常例を拒んでいたはずなのに。
東はしばし考え込んだあと「今日は帰る」と、背を向けた。あとすぐに、顔だけでこちらを見て言う。
「…そんなに飲み足りねぇなら、電話してみたらどうだ?」
俺と違って紳士的な男なら、来てくれるんじゃねぇのか?
彼は挑発するように、粗雑な物言いで続けた。
「……わかった」
また踵を返した彼の背中を見送りながら、スマートフォンを取り出し、連絡先の一覧を開く。
何度か下から上に指を滑らせると、お目当ての名前が目に入った。迷うことなくそれに触れれば、画面は呼出中の画面へと切り替わる。
画面から東に視線を移すと、その後ろ姿が少しずつ遠ざかっていく。かと思えば、不意に立ち止まり、胸元を探りだす。
そこからスマートフォンを取り出した彼は、こちらを勢い良く振り返り、呆れた顔でそれを耳に当てた。
「おい、」
「まだ、帰んないでよ」
電話口から聞こえる、東の声を遮って話し出す。
互いに向かい合い、顔は見えているのに、声はスマートフォンを通さなければ聞こえない。
いつもは騒がしいと感じるばかりの神室町の雑踏が、今だけは有り難かった。面と向かっては憚られることも、これならば、あるいは。
「もうちょっと…一緒にいようよ」
「なんでわざわざ、電話してくんだよ」
「…電話してみろって言ったの、そっちでしょ」
「そりゃ言ったが…俺にしろとは言ってねぇ」
はぁ、とわざとらしいため息が耳に届いた。目の前では、こちらもわざとらしく肩をすくめている東がいた。私は変わらず、人波の中に立つ彼をまっすぐ見つめたままだ。
「そうだけど、でも、」
「…でも、なんだよ」
「ひ、東がいいの! 他の人じゃなくて…って、言わなきゃ分かんない?」
何か言いかけた東をまた遮って、通話を切った。
勢いに、焦っていたのもある。街ゆく人々もこちらを見ている気がした。いや、見ていた。そのくらい、大きな声だった。多分、スマートフォンを通さなくても、彼に届くほど。
雑踏は煩いはずなのに、東の革靴が近づく音がやけに響いていた。彼が一歩近づく度に、心臓もより煩く跳ねる。
「お…お前、バカか? そんなデケェ声で、」
「バ、バカはそっちでしょ!」
売り言葉に買い言葉で、面映ゆさを誤魔化す。
いつもなら東がそれに乗り、八神さんか海藤さんが仲裁に入るが今日は違った。二人がいないのは勿論だが、そうではなく、彼が。
「……いや、お互い様か」
「なにが…」
「お前も言わなきゃ、分かんねぇからだよ」
ふい、と顔を逸らされる。夜にも関わらずサングラスで隠された瞳は、良く見えやしないのに。むしろ、仄かに赤らんだ耳がこちらに向いていて、熱が移りそうだ。
「ほら、なにボサッとしてんだ、行くぞ」
「えっ、どこに?」
「…二軒目、お前の奢りなんだろ?」
目的地も決めず、足早に歩き出した彼の背を今度は追いかける。追いついた先で、ジャケットの袖を何も言わずに掴んだ。それでも、ポケットに閉じこもったままの手が彼らしい。
やはり、ここに王子様はいない。言葉にしなければ伝わらない、不器用な男と女がいるだけだ。