- 襟を披く日 -
春日(2/2)
裁縫道具なら、上にある。マスターにそう伝えられた二人は、揃ってバーカウンター裏の階段へと向かった。
春日に案内されるがまま、
なまえ
は階段を上がってゆく。登りきった先の扉を押し開ければ、古いアパートの一室のような、どこか懐かしさの残る内装が目に入る。
そこには、キッチンや食器棚、寝具など生活に必要な備品が一通り揃っているようだった。階下にある洒落たバーの雰囲気とは相反し、生活感のあるそこに、
なまえ
はそわそわと落ち着かない視線を泳がせた。
吊り下げられた裸電球は心許なく、その光に埃を含んだ空気が淡く浮かんでいる。奥に見えるカーテンの開かれた窓からは、通りを往く酔っぱらいの笑声が遠く聞こえた。
「ここ、マスターが好きに使って良いって、場所提供してくれてんだ」
言いながら春日は雑に靴を脱ぎ捨て、年季の入った板張りの床に踏み出す。その一歩で床が微かに軋み、くぐもった音を立てた。
「…春日さんは、ここで、寝泊まりしてるんですか?」
なまえ
も靴を脱ぎ、同様に室内へ踏み入る。身を屈め、春日のそれと併せて踵を揃えれば、ひと回りずつ大きさの違う二足の靴が並んだ。
「あぁ、そういう日もあるな」
「じゃあ…ほんとに、」
本当に春日の家へ来たみたいだ。思わず飛び出しかけたそれを、
なまえ
は間一髪押し戻す。
いくら繋がりを求めているとはいえ、こんなにも、あからさまなことを口走ってしまっては台無しだ。少しずつ、着実に、丁寧に。そう自分に言い聞かせ、小さく深呼吸をした。
「どこにあっかなぁ…」
春日の声で我に返れば、彼は既に押入れを探り始めていた。上段には予備の布団が積まれ、その上からはどんな用途があるのか、河童の像がこちらを覗く。
春日は、下段に収められた段ボールの中身を検めている。勝手に物色するのは控えるべきだと考えた
なまえ
は、その背中をただ、じっと見つめた。
この広い背には、何と言ったか、龍──いや、魚だったかもしれない──の刺青が入っていると聞いた。
実際に見たことはなく、それがどのような絵なのか皆目見当もつかないが、きっと彼の強さや生き様を表すような、力強いものに違いない。
彼がそういった筋の者だったと聞かされたときは、当然驚いた。出生が特殊であることも、またそうだった。だが、
なまえ
の中で膨らみきった気持ちは、その程度で消え失せるほどの大きさではなかったのだ。
しばらく物色していた春日は、ようやく目当ての裁縫道具入れを見つけ出したようで、あ、と短く声をあげた。
「多分、これだ」
手渡された箱を床に置き、
なまえ
は蓋を開けた。弁当箱のようなその中には、基本的な裁縫道具がきっちりと収められている。
それを春日に伝えると、彼は安堵と負い目を滲ませた顔で目を細め、よろしくお願いしますと頭を下げた。
「じゃあ、えっと…ぬ、脱いで、もらえますか?」
なまえ
は緊張した面持ちをしながらも、努めて冷静に言った。つもりだ。実際はそう上手くはいかず、声が微かに震え、言葉の端々が噛み合っていなかったのだが、それはどうやらお互い様のようだった。
「えっ、脱…!? あ、あぁ…そ、そうだよな!」
春日の頬が一瞬で赤く染まり、耳まで熱を帯びるのが見て取れた。瞬間交わった二人の視線は、どちらともなく逸らされる。
春日は、脇目も振らずにジャケットを肩から落とす。
なまえ
はそれを視界から外すため、床に置いたままの裁縫道具入れへ視線を落とした。
先程取った蓋の上に、糸切りバサミと針山、白い糸を取り出す。針山には縫い針と、カラフルな玉のついたまち針が数本刺さっていた。
そこから縫い針を一本抜き、適当な長さに切った糸を小さな穴に通す。緊張で手までもが震えているからか、いつも以上に難儀した。
やっと通したそれを絞って、端に結び目をつくる。ごくごく小さなものだが、十分だろう。
結びを指で摘んで確かめた後、針山に刺そうとしたところで、春日が隣に腰を下ろした気配がした。落とした視線はそのまま、横目で春日を見やれば、当たり前だが肌色がよく見える。気にしていないふりをしながら
なまえ
は顔を上げるが、視線は定まらず、ちぐはぐだった。
「あの、これ…一日着てたからよ…臭かったら、ごめんな」
そっと手渡された春日のシャツを手に取れば、僅かに残る彼の体温が指先へ移った。
ふわりと舞った布地が、空気を揺らす。微かに爽やかな香りが鼻を掠め、
なまえ
は思わずすんと鼻を鳴らした。
「や、やっぱ臭ぇか!?」
春日は丸く目を剥き、面食らった様子でシャツを引ったくると襟元に鼻を埋める。短く何度も息を吸い込むその様は、ひどく不安気だった。
「ちがいます! 臭くなんて…むしろ、」
慌てて否定をした勢いに、今度の
なまえ
は言葉を飲み込みきれない。埋めた鼻をもたげた春日に改めて、すごく良い香りで、と付け足した。
「え、そ、そうか? なら…よかった」
「…香水、使ってるんですか?」
「あーっと、うん、そう…お洒落に磨きをかけようかなーなんて、思ったりして…」
「へぇ…春日さんってそういうの、興味ないのかと思ってました」
「まあ、ちょっとな…」
春日は言葉尻をわざと濁した。目線は宙に彷徨わせ、頬を人さし指でポリポリと掻く。
詳しい理由は聞かないでくれ。そう言わんとしていることが見て取れて、
なまえ
はそれ以上を続けなかった。
良く見られたい相手が出来たと、そういうことなのだろうか。それは一体誰なのだろうと考えれば、浮かぶ顔は一つではなかった。それに、自分の顔が浮かぶほどの自信も。小さな寂しさがわずかに疼き、胸の奥深くがちくりと痛んだ。
「これ…やりにくいだろ?机、出すぜ」
春日は誤魔化すように立ち上がり、敷かれている布団の足元に立てかけられていた机を掴んだ。振り返れば剥き出しの背中を見られたが、
なまえ
は床に置かれた裁縫道具を纏めることに懸命だった。
「よっと」
言いながらひっくり返し、八畳の中央へゆっくりと下ろす。目の前にある春日の力の込められた腕は、筋肉が隆起し、筋張っていた。
再度シャツを受け取り、
なまえ
は自身のポケットに仕舞い込んだままだったボタンを取り出す。
針を通して、ボタンを一針一針、丁寧に縫い付けていく。布地を貫く針の小気味良い感触と、折り重なる白い糸。彼との関係も、こんな風に繋ぎ止められたなら──
「ほー、うまいもんだなぁ」
不意に横から声をかけられて、
なまえ
の肩が揺れる。春日の息遣いが柔らかく頬を撫で、針を持つ手が止まった。
声の方を向けば、手元を覗き込まれていたようで、思っていたよりも近くに彼の顔があって驚いた。どくどく、胸が激しく脈を打つ。
春日の真剣な眼差しは、指先に落ちている。こんなことなら、爪も手も、もっと綺麗にしておけば。良く見られたいのは、
なまえ
も春日と同じだった。
「そんなに見られたら、緊張しちゃいますよ…」
「す、すまん…でもなんか、良いな…って思ってよ」
「…良い?」
「うん、なんていうか…思い出すんだ」
言うと、春日は嬉しそうにはにかんだ。そのあどけない表情が、キラキラと光って見えて、
なまえ
の視線はそこに縫いつけられる。
「ガキの頃は、店の姉ちゃんたちがやってくれたんだ。みんな目ざとくてよ…私が、いや、私がって…俺の服、取り合いになってたな」
実家での思い出を語る春日は、殊更嬉しげに見えた。柔らかく下がった彼の眼尻に、
なまえ
の口許も自然と緩む。
「…ふふ、昔から変わらないんですね」
「…ん?」
「みんな春日さんのこと、好きになっちゃうの」
「なぁ、それってよ、その……
なまえ
ちゃんも、そうなのか?」
突然問われたことに、驚きで手元が狂い、針が人さし指に浅く刺さった。ほんの一瞬だったが、反射的に痛みが声に出る。
「だ、大丈夫か!?」
「すみません…ちょっと、引っかかっちゃって、」
見れば、皮が少し剥けた程度で、出血もない。
真っ白なシャツを汚さずに済んだことに、
なまえ
はほっと胸を撫で下ろした。一方で春日は、青い顔をして狼狽えている。
「傷、できちまったんじゃ…」
「だ、大丈夫です、平気です! あの、もう…できますから、」
見せて、と手を取られそうになって、
なまえ
は咄嗟に言葉を被せて制止した。
続けて、残りの数針を早急に刺す。その間にも春日は、手元を見ていたが、
なまえ
はそれに気がつかない。その後の処理も手早く終わらせると、糸を切った。
「…お待たせしました」
「ありがとな…ほんと、助かったぜ」
シャツを手渡せば、春日は縫いつけられたボタンをまじまじと眺めた。
器用だ、すごい、流石、と矢継ぎ早に褒める彼に、
なまえ
は謙遜の言葉を口にする。それすらも跳ね除ける春日に、嘘はひとつもない。ボタンを見つめる瞳にも、それを撫でる指先にも、綻ぶ頬にも。
「…あの、さっきのですけど」
裁縫道具を箱に収めながら、
なまえ
はゆっくりと口を開く。
「私も、"そう"です」
ややあって、
なまえ
の指すものを理解した春日は、目を大きく見開いた。言葉を探してか、顔には困惑が浮かぶ。
なまえ
は自身の無謀さに息を呑んだ。また早まる鼓動に急かされ、焦りが募った。
「わ、私、先に降りてます!」
春日の返答を待たず、
なまえ
は扉を開けて階段へと足を進める。背に名を呼ぶ声がかかるが、構わず駆け下りた。
みるみるうちに熱くなる頬は、階下へ降りるまでに収めなければ。分かってはいるが、自身の放った言葉の意味と、それに対する春日の反応を思い返すと駄目だった。
降りきった先で取り繕おうとするも、それも叶わない。
カウンターの端席に座る、いつの間にやら来店していたナンバの視線を浴びることになったのだ。
ナンバが
なまえ
に声をかければ、尚もニタニタと笑う足立と、マスターまでもが身を乗り出す。そして、その目線はすぐさま下へと滑って行き、ナンバが
なまえ
の足元を指差して言った。
「なぁ、
なまえ
ちゃん…靴は?」
◇
一人きりになった二階で、春日は握りしめていたシャツを羽織る。
頭の中では、
なまえ
の放った言葉ばかりが反芻していた。こちらから返す言葉など一つしかなかったが、驚きと喜びとで、それどころではなかった。絶好の機会を逃してしまった、と肩を落とす。
気もそぞろになりながら、ボタンを上から順に留めていく。いつも通り、上から二つは飛ばし、最後のボタンを穴に通した。
「…あ、やっちまった」
余ったボタンホールと、一つ足りないボタン。掛け違えたことに、そこで初めて気がついた。
春日は小さくため息をつきながら、全てのボタンを外す。そして、次は間違えないよう、下からボタンをかけ直した。
最後に、先程縫いつけてもらったばかりのボタンを留める。それがほのかに熱く感じられたのは、きっと気のせいなどではない。
シャツを着終えた春日は、内へ捲れた襟を整える。
ジャケットを片手に、階下へ降りようとたたきへ視線を向ければ、目に入るのはきちんと揃えられた靴。が、二足。
春日は慌てて自身の靴をつま先にひっかけ、扉を開く。
開いた先には、音もなく上がって来ていた
なまえ
が立ちすくんでおり、驚いた顔の彼女と目が合った。
気まずい沈黙が二人の間を埋める。階下からは、足立とナンバの笑い声が響いた。
「わ、忘れもの…しちゃって、」
俯きがちに小さく漏らした
なまえ
の腕を、春日が捕まえる。その手は熱く、どちらともなくじわりと汗ばんだ。
「…うん、俺も」
焦れた声の春日が腕を引く。
なまえ
が一歩を踏み出せば、背後では扉が音を立てて閉まった。
階下の騒ぎはもう聞こえない。煩いほどに拍動する心臓が、こんなにもすぐ傍にあるのだ。
裁縫道具なら、上にある。マスターにそう伝えられた二人は、揃ってバーカウンター裏の階段へと向かった。
春日に案内されるがまま、なまえは階段を上がってゆく。登りきった先の扉を押し開ければ、古いアパートの一室のような、どこか懐かしさの残る内装が目に入る。
そこには、キッチンや食器棚、寝具など生活に必要な備品が一通り揃っているようだった。階下にある洒落たバーの雰囲気とは相反し、生活感のあるそこに、なまえはそわそわと落ち着かない視線を泳がせた。
吊り下げられた裸電球は心許なく、その光に埃を含んだ空気が淡く浮かんでいる。奥に見えるカーテンの開かれた窓からは、通りを往く酔っぱらいの笑声が遠く聞こえた。
「ここ、マスターが好きに使って良いって、場所提供してくれてんだ」
言いながら春日は雑に靴を脱ぎ捨て、年季の入った板張りの床に踏み出す。その一歩で床が微かに軋み、くぐもった音を立てた。
「…春日さんは、ここで、寝泊まりしてるんですか?」
なまえも靴を脱ぎ、同様に室内へ踏み入る。身を屈め、春日のそれと併せて踵を揃えれば、ひと回りずつ大きさの違う二足の靴が並んだ。
「あぁ、そういう日もあるな」
「じゃあ…ほんとに、」
本当に春日の家へ来たみたいだ。思わず飛び出しかけたそれを、なまえは間一髪押し戻す。
いくら繋がりを求めているとはいえ、こんなにも、あからさまなことを口走ってしまっては台無しだ。少しずつ、着実に、丁寧に。そう自分に言い聞かせ、小さく深呼吸をした。
「どこにあっかなぁ…」
春日の声で我に返れば、彼は既に押入れを探り始めていた。上段には予備の布団が積まれ、その上からはどんな用途があるのか、河童の像がこちらを覗く。
春日は、下段に収められた段ボールの中身を検めている。勝手に物色するのは控えるべきだと考えたなまえは、その背中をただ、じっと見つめた。
この広い背には、何と言ったか、龍──いや、魚だったかもしれない──の刺青が入っていると聞いた。
実際に見たことはなく、それがどのような絵なのか皆目見当もつかないが、きっと彼の強さや生き様を表すような、力強いものに違いない。
彼がそういった筋の者だったと聞かされたときは、当然驚いた。出生が特殊であることも、またそうだった。だが、なまえの中で膨らみきった気持ちは、その程度で消え失せるほどの大きさではなかったのだ。
しばらく物色していた春日は、ようやく目当ての裁縫道具入れを見つけ出したようで、あ、と短く声をあげた。
「多分、これだ」
手渡された箱を床に置き、なまえは蓋を開けた。弁当箱のようなその中には、基本的な裁縫道具がきっちりと収められている。
それを春日に伝えると、彼は安堵と負い目を滲ませた顔で目を細め、よろしくお願いしますと頭を下げた。
「じゃあ、えっと…ぬ、脱いで、もらえますか?」
なまえは緊張した面持ちをしながらも、努めて冷静に言った。つもりだ。実際はそう上手くはいかず、声が微かに震え、言葉の端々が噛み合っていなかったのだが、それはどうやらお互い様のようだった。
「えっ、脱…!? あ、あぁ…そ、そうだよな!」
春日の頬が一瞬で赤く染まり、耳まで熱を帯びるのが見て取れた。瞬間交わった二人の視線は、どちらともなく逸らされる。
春日は、脇目も振らずにジャケットを肩から落とす。なまえはそれを視界から外すため、床に置いたままの裁縫道具入れへ視線を落とした。
先程取った蓋の上に、糸切りバサミと針山、白い糸を取り出す。針山には縫い針と、カラフルな玉のついたまち針が数本刺さっていた。
そこから縫い針を一本抜き、適当な長さに切った糸を小さな穴に通す。緊張で手までもが震えているからか、いつも以上に難儀した。
やっと通したそれを絞って、端に結び目をつくる。ごくごく小さなものだが、十分だろう。
結びを指で摘んで確かめた後、針山に刺そうとしたところで、春日が隣に腰を下ろした気配がした。落とした視線はそのまま、横目で春日を見やれば、当たり前だが肌色がよく見える。気にしていないふりをしながらなまえは顔を上げるが、視線は定まらず、ちぐはぐだった。
「あの、これ…一日着てたからよ…臭かったら、ごめんな」
そっと手渡された春日のシャツを手に取れば、僅かに残る彼の体温が指先へ移った。
ふわりと舞った布地が、空気を揺らす。微かに爽やかな香りが鼻を掠め、なまえは思わずすんと鼻を鳴らした。
「や、やっぱ臭ぇか!?」
春日は丸く目を剥き、面食らった様子でシャツを引ったくると襟元に鼻を埋める。短く何度も息を吸い込むその様は、ひどく不安気だった。
「ちがいます! 臭くなんて…むしろ、」
慌てて否定をした勢いに、今度のなまえは言葉を飲み込みきれない。埋めた鼻をもたげた春日に改めて、すごく良い香りで、と付け足した。
「え、そ、そうか? なら…よかった」
「…香水、使ってるんですか?」
「あーっと、うん、そう…お洒落に磨きをかけようかなーなんて、思ったりして…」
「へぇ…春日さんってそういうの、興味ないのかと思ってました」
「まあ、ちょっとな…」
春日は言葉尻をわざと濁した。目線は宙に彷徨わせ、頬を人さし指でポリポリと掻く。
詳しい理由は聞かないでくれ。そう言わんとしていることが見て取れて、なまえはそれ以上を続けなかった。
良く見られたい相手が出来たと、そういうことなのだろうか。それは一体誰なのだろうと考えれば、浮かぶ顔は一つではなかった。それに、自分の顔が浮かぶほどの自信も。小さな寂しさがわずかに疼き、胸の奥深くがちくりと痛んだ。
「これ…やりにくいだろ?机、出すぜ」
春日は誤魔化すように立ち上がり、敷かれている布団の足元に立てかけられていた机を掴んだ。振り返れば剥き出しの背中を見られたが、なまえは床に置かれた裁縫道具を纏めることに懸命だった。
「よっと」
言いながらひっくり返し、八畳の中央へゆっくりと下ろす。目の前にある春日の力の込められた腕は、筋肉が隆起し、筋張っていた。
再度シャツを受け取り、なまえは自身のポケットに仕舞い込んだままだったボタンを取り出す。
針を通して、ボタンを一針一針、丁寧に縫い付けていく。布地を貫く針の小気味良い感触と、折り重なる白い糸。彼との関係も、こんな風に繋ぎ止められたなら──
「ほー、うまいもんだなぁ」
不意に横から声をかけられて、なまえの肩が揺れる。春日の息遣いが柔らかく頬を撫で、針を持つ手が止まった。
声の方を向けば、手元を覗き込まれていたようで、思っていたよりも近くに彼の顔があって驚いた。どくどく、胸が激しく脈を打つ。
春日の真剣な眼差しは、指先に落ちている。こんなことなら、爪も手も、もっと綺麗にしておけば。良く見られたいのは、なまえも春日と同じだった。
「そんなに見られたら、緊張しちゃいますよ…」
「す、すまん…でもなんか、良いな…って思ってよ」
「…良い?」
「うん、なんていうか…思い出すんだ」
言うと、春日は嬉しそうにはにかんだ。そのあどけない表情が、キラキラと光って見えて、なまえの視線はそこに縫いつけられる。
「ガキの頃は、店の姉ちゃんたちがやってくれたんだ。みんな目ざとくてよ…私が、いや、私がって…俺の服、取り合いになってたな」
実家での思い出を語る春日は、殊更嬉しげに見えた。柔らかく下がった彼の眼尻に、なまえの口許も自然と緩む。
「…ふふ、昔から変わらないんですね」
「…ん?」
「みんな春日さんのこと、好きになっちゃうの」
「なぁ、それってよ、その……なまえちゃんも、そうなのか?」
突然問われたことに、驚きで手元が狂い、針が人さし指に浅く刺さった。ほんの一瞬だったが、反射的に痛みが声に出る。
「だ、大丈夫か!?」
「すみません…ちょっと、引っかかっちゃって、」
見れば、皮が少し剥けた程度で、出血もない。
真っ白なシャツを汚さずに済んだことに、なまえはほっと胸を撫で下ろした。一方で春日は、青い顔をして狼狽えている。
「傷、できちまったんじゃ…」
「だ、大丈夫です、平気です! あの、もう…できますから、」
見せて、と手を取られそうになって、なまえは咄嗟に言葉を被せて制止した。
続けて、残りの数針を早急に刺す。その間にも春日は、手元を見ていたが、なまえはそれに気がつかない。その後の処理も手早く終わらせると、糸を切った。
「…お待たせしました」
「ありがとな…ほんと、助かったぜ」
シャツを手渡せば、春日は縫いつけられたボタンをまじまじと眺めた。
器用だ、すごい、流石、と矢継ぎ早に褒める彼に、なまえは謙遜の言葉を口にする。それすらも跳ね除ける春日に、嘘はひとつもない。ボタンを見つめる瞳にも、それを撫でる指先にも、綻ぶ頬にも。
「…あの、さっきのですけど」
裁縫道具を箱に収めながら、なまえはゆっくりと口を開く。
「私も、"そう"です」
ややあって、なまえの指すものを理解した春日は、目を大きく見開いた。言葉を探してか、顔には困惑が浮かぶ。
なまえは自身の無謀さに息を呑んだ。また早まる鼓動に急かされ、焦りが募った。
「わ、私、先に降りてます!」
春日の返答を待たず、なまえは扉を開けて階段へと足を進める。背に名を呼ぶ声がかかるが、構わず駆け下りた。
みるみるうちに熱くなる頬は、階下へ降りるまでに収めなければ。分かってはいるが、自身の放った言葉の意味と、それに対する春日の反応を思い返すと駄目だった。
降りきった先で取り繕おうとするも、それも叶わない。
カウンターの端席に座る、いつの間にやら来店していたナンバの視線を浴びることになったのだ。
ナンバがなまえに声をかければ、尚もニタニタと笑う足立と、マスターまでもが身を乗り出す。そして、その目線はすぐさま下へと滑って行き、ナンバがなまえの足元を指差して言った。
「なぁ、なまえちゃん…靴は?」
◇
一人きりになった二階で、春日は握りしめていたシャツを羽織る。
頭の中では、なまえの放った言葉ばかりが反芻していた。こちらから返す言葉など一つしかなかったが、驚きと喜びとで、それどころではなかった。絶好の機会を逃してしまった、と肩を落とす。
気もそぞろになりながら、ボタンを上から順に留めていく。いつも通り、上から二つは飛ばし、最後のボタンを穴に通した。
「…あ、やっちまった」
余ったボタンホールと、一つ足りないボタン。掛け違えたことに、そこで初めて気がついた。
春日は小さくため息をつきながら、全てのボタンを外す。そして、次は間違えないよう、下からボタンをかけ直した。
最後に、先程縫いつけてもらったばかりのボタンを留める。それがほのかに熱く感じられたのは、きっと気のせいなどではない。
シャツを着終えた春日は、内へ捲れた襟を整える。
ジャケットを片手に、階下へ降りようとたたきへ視線を向ければ、目に入るのはきちんと揃えられた靴。が、二足。
春日は慌てて自身の靴をつま先にひっかけ、扉を開く。
開いた先には、音もなく上がって来ていたなまえが立ちすくんでおり、驚いた顔の彼女と目が合った。
気まずい沈黙が二人の間を埋める。階下からは、足立とナンバの笑い声が響いた。
「わ、忘れもの…しちゃって、」
俯きがちに小さく漏らしたなまえの腕を、春日が捕まえる。その手は熱く、どちらともなくじわりと汗ばんだ。
「…うん、俺も」
焦れた声の春日が腕を引く。なまえが一歩を踏み出せば、背後では扉が音を立てて閉まった。
階下の騒ぎはもう聞こえない。煩いほどに拍動する心臓が、こんなにもすぐ傍にあるのだ。