- 同穴 -
花輪
男女を乗せた黒塗りの車は、夜の帳が降りた高速道路をひた走る。
助手席に座る女は
みょうじ
なまえ
、運転席の男はその上司に当たる花輪喜平だった。二人に楽しげな様子はなく、どちらも同様に鳴りを潜めている。
よくある企業の、部下と上司が共にする車内ならば、世間話のひとつやふたつあっても良さそうなものだが、この二人に一般論は通用しない。
何故なら
なまえ
は、裏で暗躍する大組織、大道寺一派のエージェントで、花輪はその管理者だからだ。管理されるものと管理する者、字面だけで見てしまえば、決して解け合うことのない間柄であった。
「本日は、お疲れ様でした」
「花輪さんも…お疲れ様です」
交わした言葉はそれだけで、車内には静寂が訪れた。
なまえ
は、反発する座面に腰を沈め、所在なげに窓から夜を見る。だが、高架に敷かれたこの道の上では、景色の移り変わりなどあってないようなものだった。
こんな場所で他に出来る退屈しのぎと言えば、前を走る車のナンバープレートを眺め、語呂合わせや簡単な計算に興じるか。それとも、次に後続から追い抜いてくる車の色を予測して、成功の数で運勢を占うか。思い及ぶのは、そんな子ども騙しなものばかりだった。後者は特に、走行する車の少ない夜では、長期戦になることは想像に難くない。
次は白、心の中で呟いた
なまえ
の耳へ、不意にぎゅうと何かの擦れる音が届いた。出どころは、花輪が握っているステアリングからだった。強く掴み直したのか、力を込められたウレタンが鳴いたのだ。
なまえ
がそちらに目をやれば、運転席にむっつりと座る花輪が映る。普段通りの澄ました顔に、うっかり力むほどの張り詰めた様子もなかったが、ややあって発された花輪の声は、彼には珍しくひどく親身なものだった。
「よくやっていたと、聞いていますよ」
本来であれば、褒められたことを素直に喜ぶべきなのだが、今の
なまえ
にはそれが何より難しかった。
「本当ですか?……これで?」
なまえ
は、フッと自嘲気味に鼻を鳴らし、黒いパンツスーツの下に隠れた足へ視線を落とす。
応急手当を済ませた傷口は、未だじくじくと疼いている。それに伴う痛みがまざまざと思い出させるのは、肉が裂けるその瞬間。気が滅入るその感覚に、彼女は深く息を吐いた。
「ええ、結果が全てですから」
管理者としては、もう少し気をつけていただきたいところですがね。
ちくりと釘を刺す花輪の一言は、いつもならばただの戯れだったが、
なまえ
はそれすら、うまく受け取ることが出来なかった。項垂れたまま、膝の上に置かれた手は固く、悔恨の念を握りこんでいる。
平常の
なまえ
とは程遠い様子に、気を揉んだ花輪は、横目で彼女を見た。そして、先ほどの思いやりはどこへやら、呆れを滲ませた声色で言う。
「任務は成功したんです、それは認めても良いのでは?」
「えっと……それって、励ましてくださってるんですよね?」
「…好きに受け取ってください」
花輪は、表情を和らげることもなく、無愛想なままだった。
フロントガラスを真っ直ぐに見据える彼のその横顔を、
なまえ
は何を言うでもなく、ただ見ていた。その視線は微かにあつい。
「何か、言いたいことでも?」
それに気がついた花輪は、顔も動かさず、至って形式的に問いかけた。
問われた
なまえ
は、背もたれに重く預けていた背を伸ばし、身体の軸を運転席側へと捻る。身体の中心で花輪を見れば、普段は薄色のサングラスに隠れる瞳に、本来の色が見てとれた。
レンズの隙間から覗くそれは、身動ぎした
なまえ
を気にしてか、かすかに揺れている。
「花輪さん、好きです」
なまえ
は徐ろに口を開いた。なんてことはない、いつもの声色だった。通例なら、告げる者は焦れ、告げられた者は揺らぎを見せるものだが、先述の通りこの二人に一般論は通用しないのだ。
花輪も顔色一つ変えず、そうですか、と手短に返答をする。そして、次に彼が口を開いた時には、
なまえ
が打ち明けた心の内など、もうなかったことになっていた。
「数日は、怪我を治すことに専念してください」
「…花輪さん、聞いてました?」
「聞いていますよ。…私に好意を寄せていると、そう仰ったのですよね」
「……はい」
また、沈黙。車内に残るのは、熱されたエンジンが唸る音だけだった。速度は一定を保ったまま、タイヤは整備された路面を滑っていく。
「その…今日の、お返事は?」
「気持ちを伝えられただけでは、回答の仕様がありませんので」
「……花輪さんってたまに、子どもみたいなこと言いますよね」
花輪は、眉根をひそめた顔を傾け、やっと
なまえ
を見た。
「あなたにだけは、言われたくないですね」
なまえ
も負けじと目を細めるが、顔はすぐに逸らされた。続けて、負けじと言い返す。
「じゃあ、言い直します…好きです、付き合ってください。これでいいですか?」
「どこにです?」
「え?」
「どこに、お付き合いしたら良いですか?」
言った花輪の口許は、密かに緩んでいた。先ほど揶揄われたことを根に持って、わざと幼稚に振る舞ったのだ。
それに気がついた
なまえ
は、先ほどの花輪と同様に眉根をひそめる。彼はそれを一目も見やしないが、押し黙る彼女の表情を想像したのか、わずかに上がった口角を引き戻した。
「私の回答など、分かりきっていることでしょう」
「…そうですね。何度言っても、変わりませんもんね」
「あなたも懲りませんね…私たちは、そんなことが言える立場の人間ではないと、何度言ったら分かるんです?」
なまえ
は何も答えなかった。
分からないし、分かりたくもない。そう言えば、お決まりの小言が飛んでくると分かっているからだった。代わりに、いっそう不機嫌に顔を歪める。
目玉だけを動かしてそれを捉えた花輪は、小さくため息をついた。
「…今日、怪我をしたのは、あなただけですか?」
「多分…私だけです」
「そうですか。それは、運が悪かったですね」
「私以外の、運が良かっただけでは?」
花輪の真似をして皮肉を口にした
なまえ
は、傾けていた身体を戻す。背もたれへと寄りかかり、これから過ぎる先の道路を見るともなく眺めた。
「…そうかもしれませんね。一度きりのエージェントも、大勢いますから」
しばしの後、花輪は独り言のように、様々を抑えた声で呟いた。
なまえ
はその言葉に、数ヶ月前、一度同じ任務に就いたきり、会うことも連絡をとることもなかった、ひとりのエージェントを思い起こした。
なまえ
と同じく管理される側のその者は、また同じく女性であった。男ばかりのここでは、同性というだけで通ずるものがあり、幾分か打ち解けていたのだ。
「…前に、同行したエージェントは、元気でしょうか」
なまえ
もまた、ぽつりと呟いた。花輪はそれを逃さず掬いあげる。
「誰のことです?」
「あの、女性の…」
なまえ
が言うと花輪は、少しの思索の後、あぁ、と声を漏らした。そして、ずけずけと物を言う彼が、滅多に見せることのない躊躇いを束の間見せ、やっと口を開く。
「…亡くなりましたよ、先月のことです」
「えっ」
なまえ
は先ほど沈めたばかりの身を、ぐいと起こした。伸びきらないシートベルトが食い込むのも気に留めず、花輪を見やる。彼女が死んだ事実にも驚いたが、花輪の胸中を伺いたかった。
吹けば飛ぶような一介のエージェントの往生など、取るに足らないこと。組織上層部の考えは分かりきっている。ならば、彼は。
「…あなたが知らないのも当然です。伝達されることなど、稀ですから」
言いながら、相も変わらず、道路の先を見つめるばかりのその瞳から、感情を推し量ることは難しい。
きっと、自身の死を聞かされた際にも花輪は、この通り不変なのだろう。
なまえ
にとって、いつ訪れてもおかしくはないその瞬間を想像するのは、あまりにも易いことであった。
「死んだら、どうなるんですか?」
「どう、とは…?精神が、肉体がとか、天国地獄の話なら私には、」
「ち、違いますよ。その…遺体とか、後の処理とか、そういうのです」
「……私たちは世間から見れば、既に死んでいる身ですから、」
またそれか、と
なまえ
は目を伏せた。
花輪が時折言い聞かせてくるこの言葉が嫌いだった。何もかもを諦めろと言われているようで、そして彼にはそれがもう済んでいるようで、やるせないのだ。
なまえ
の気を知らない花輪は、続けて言う。
「式もせず、遺体は焼かれて…骨は…合葬墓にでも、納められるのではないですか?」
合葬墓、と
なまえ
は繰り返す。亡くなった彼女も、今は一人きりではない。それが分かっただけでも、多少なりとも救われる思いだった。
言葉の意味を確かめるように、更に二度繰り返したところで、
なまえ
は俯いていた目をぱっと開いた。そのまま流れるように花輪へ視線を送り、口を開く。
「それって、花輪さんもですか?」
「え?…ええ、まあ…そうでしょうね」
「私も?」
「…ええ」
「あぁ、そっか……なら、安心ですね」
言いながら
なまえ
は、ヘッドレストに頭を預けた。
胸をなで下ろした手は、拍動を続ける心臓の上へ置いたまま、わずかに上を向く視線で、フロントガラス越しの狭い夜空を覗いた。
無数に瞬いているはずの星は、一つとして見えない。すべてが作られたここでは、流れる道路照明の方がよっぽど爛々と輝いていて、綺麗に見える。
「うち捨てられるとでも、お思いでしたか?」
「いえ、そうじゃなくて…死んだら、花輪さんと一緒になれるんだなって」
「…と、言うと?」
花輪は、飛躍した言葉の意味を飲み込めていなかった。答えを急かすように、丸くなった瞳で
なまえ
を一瞥する。
「だって、同じお墓に入れるってことですよね?」
「あぁ、なるほど…見方によっては、そうかもしれませんが…」
「だから、良かったなって。生きてるうちは、望み薄なので」
言った
なまえ
は、ゆっくりと目を閉じる。このまま眠りについてしまうのではないかと、そう思えるほど、実に穏やかな顔だった。
「だからって、死に急ぐのは辞めてくださいよ」
「急ぎませんよ。私…花輪さんより先に、死ぬ訳にはいきませんから」
「…何故です?」
「死を悼む人がいないと、成仏できないかも知れないじゃないですか」
「……私を慕うのが、あなただけだとでも?」
「実際、花輪さんを一番大切に想ってるのは私ですよ」
「とんだ思い違いですね」
なまえ
の飾らない物言いに、花輪は売り言葉で返す。彼女はそれを取り合うことはせず、また真心を返すだけだった。
「あ、でも…長いこと待たせるのは悪いので、」
長生きするのは、一日だけにします。言って、
なまえ
は悪戯に笑う。
それを死に急ぐと言うんです、と花輪はまた売り言葉を飛ばし、
なまえ
はまた笑みを零した。勝手に緩もうとする頬を、必死に抑える花輪とは対照に、眩しいほどの笑顔だった。
「…もし、あなたが先なら私は、」
きっと、と花輪は言い淀む。ウレタンはまた鳴き声をあげるが、
なまえ
は何も言わない。代わりに、彼を見つめて光る瞳が、ぱちぱちと数回瞬いた。
「きっと…待たせますよ」
「いいですよ、待つのは得意です。その時は、存分に長生きしてください」
「…その言葉、」
そっくりそのままお返しします。
そう発したはずの花輪の声は、ふかされた大きなエンジン音によって攫われた。
隣の車線を走り抜けたのは、白い車体のトラックだった。
先の予測が当たったことに、
なまえ
は気を取られる。捻くれている花輪が見せた、稀有な赤心は置いてけぼりだ。
彼も、二度と言うことはしない。ただ、不相応な自分の行いを正すように、サングラスのブリッジを指先で押し上げるのみだった。
程なくして車は、下道へのインターチェンジを緩やかに下ってゆく。
二人だけのドライブは、もうすぐ終わりを告げるのだ。そして、いつか迎える二人の始まりも、また──
男女を乗せた黒塗りの車は、夜の帳が降りた高速道路をひた走る。
助手席に座る女はみょうじなまえ、運転席の男はその上司に当たる花輪喜平だった。二人に楽しげな様子はなく、どちらも同様に鳴りを潜めている。
よくある企業の、部下と上司が共にする車内ならば、世間話のひとつやふたつあっても良さそうなものだが、この二人に一般論は通用しない。
何故ならなまえは、裏で暗躍する大組織、大道寺一派のエージェントで、花輪はその管理者だからだ。管理されるものと管理する者、字面だけで見てしまえば、決して解け合うことのない間柄であった。
「本日は、お疲れ様でした」
「花輪さんも…お疲れ様です」
交わした言葉はそれだけで、車内には静寂が訪れた。
なまえは、反発する座面に腰を沈め、所在なげに窓から夜を見る。だが、高架に敷かれたこの道の上では、景色の移り変わりなどあってないようなものだった。
こんな場所で他に出来る退屈しのぎと言えば、前を走る車のナンバープレートを眺め、語呂合わせや簡単な計算に興じるか。それとも、次に後続から追い抜いてくる車の色を予測して、成功の数で運勢を占うか。思い及ぶのは、そんな子ども騙しなものばかりだった。後者は特に、走行する車の少ない夜では、長期戦になることは想像に難くない。
次は白、心の中で呟いたなまえの耳へ、不意にぎゅうと何かの擦れる音が届いた。出どころは、花輪が握っているステアリングからだった。強く掴み直したのか、力を込められたウレタンが鳴いたのだ。
なまえがそちらに目をやれば、運転席にむっつりと座る花輪が映る。普段通りの澄ました顔に、うっかり力むほどの張り詰めた様子もなかったが、ややあって発された花輪の声は、彼には珍しくひどく親身なものだった。
「よくやっていたと、聞いていますよ」
本来であれば、褒められたことを素直に喜ぶべきなのだが、今のなまえにはそれが何より難しかった。
「本当ですか?……これで?」
なまえは、フッと自嘲気味に鼻を鳴らし、黒いパンツスーツの下に隠れた足へ視線を落とす。
応急手当を済ませた傷口は、未だじくじくと疼いている。それに伴う痛みがまざまざと思い出させるのは、肉が裂けるその瞬間。気が滅入るその感覚に、彼女は深く息を吐いた。
「ええ、結果が全てですから」
管理者としては、もう少し気をつけていただきたいところですがね。
ちくりと釘を刺す花輪の一言は、いつもならばただの戯れだったが、なまえはそれすら、うまく受け取ることが出来なかった。項垂れたまま、膝の上に置かれた手は固く、悔恨の念を握りこんでいる。
平常のなまえとは程遠い様子に、気を揉んだ花輪は、横目で彼女を見た。そして、先ほどの思いやりはどこへやら、呆れを滲ませた声色で言う。
「任務は成功したんです、それは認めても良いのでは?」
「えっと……それって、励ましてくださってるんですよね?」
「…好きに受け取ってください」
花輪は、表情を和らげることもなく、無愛想なままだった。
フロントガラスを真っ直ぐに見据える彼のその横顔を、なまえは何を言うでもなく、ただ見ていた。その視線は微かにあつい。
「何か、言いたいことでも?」
それに気がついた花輪は、顔も動かさず、至って形式的に問いかけた。
問われたなまえは、背もたれに重く預けていた背を伸ばし、身体の軸を運転席側へと捻る。身体の中心で花輪を見れば、普段は薄色のサングラスに隠れる瞳に、本来の色が見てとれた。
レンズの隙間から覗くそれは、身動ぎしたなまえを気にしてか、かすかに揺れている。
「花輪さん、好きです」
なまえは徐ろに口を開いた。なんてことはない、いつもの声色だった。通例なら、告げる者は焦れ、告げられた者は揺らぎを見せるものだが、先述の通りこの二人に一般論は通用しないのだ。
花輪も顔色一つ変えず、そうですか、と手短に返答をする。そして、次に彼が口を開いた時には、なまえが打ち明けた心の内など、もうなかったことになっていた。
「数日は、怪我を治すことに専念してください」
「…花輪さん、聞いてました?」
「聞いていますよ。…私に好意を寄せていると、そう仰ったのですよね」
「……はい」
また、沈黙。車内に残るのは、熱されたエンジンが唸る音だけだった。速度は一定を保ったまま、タイヤは整備された路面を滑っていく。
「その…今日の、お返事は?」
「気持ちを伝えられただけでは、回答の仕様がありませんので」
「……花輪さんってたまに、子どもみたいなこと言いますよね」
花輪は、眉根をひそめた顔を傾け、やっとなまえを見た。
「あなたにだけは、言われたくないですね」
なまえも負けじと目を細めるが、顔はすぐに逸らされた。続けて、負けじと言い返す。
「じゃあ、言い直します…好きです、付き合ってください。これでいいですか?」
「どこにです?」
「え?」
「どこに、お付き合いしたら良いですか?」
言った花輪の口許は、密かに緩んでいた。先ほど揶揄われたことを根に持って、わざと幼稚に振る舞ったのだ。
それに気がついたなまえは、先ほどの花輪と同様に眉根をひそめる。彼はそれを一目も見やしないが、押し黙る彼女の表情を想像したのか、わずかに上がった口角を引き戻した。
「私の回答など、分かりきっていることでしょう」
「…そうですね。何度言っても、変わりませんもんね」
「あなたも懲りませんね…私たちは、そんなことが言える立場の人間ではないと、何度言ったら分かるんです?」
なまえは何も答えなかった。
分からないし、分かりたくもない。そう言えば、お決まりの小言が飛んでくると分かっているからだった。代わりに、いっそう不機嫌に顔を歪める。
目玉だけを動かしてそれを捉えた花輪は、小さくため息をついた。
「…今日、怪我をしたのは、あなただけですか?」
「多分…私だけです」
「そうですか。それは、運が悪かったですね」
「私以外の、運が良かっただけでは?」
花輪の真似をして皮肉を口にしたなまえは、傾けていた身体を戻す。背もたれへと寄りかかり、これから過ぎる先の道路を見るともなく眺めた。
「…そうかもしれませんね。一度きりのエージェントも、大勢いますから」
しばしの後、花輪は独り言のように、様々を抑えた声で呟いた。
なまえはその言葉に、数ヶ月前、一度同じ任務に就いたきり、会うことも連絡をとることもなかった、ひとりのエージェントを思い起こした。
なまえと同じく管理される側のその者は、また同じく女性であった。男ばかりのここでは、同性というだけで通ずるものがあり、幾分か打ち解けていたのだ。
「…前に、同行したエージェントは、元気でしょうか」
なまえもまた、ぽつりと呟いた。花輪はそれを逃さず掬いあげる。
「誰のことです?」
「あの、女性の…」
なまえが言うと花輪は、少しの思索の後、あぁ、と声を漏らした。そして、ずけずけと物を言う彼が、滅多に見せることのない躊躇いを束の間見せ、やっと口を開く。
「…亡くなりましたよ、先月のことです」
「えっ」
なまえは先ほど沈めたばかりの身を、ぐいと起こした。伸びきらないシートベルトが食い込むのも気に留めず、花輪を見やる。彼女が死んだ事実にも驚いたが、花輪の胸中を伺いたかった。
吹けば飛ぶような一介のエージェントの往生など、取るに足らないこと。組織上層部の考えは分かりきっている。ならば、彼は。
「…あなたが知らないのも当然です。伝達されることなど、稀ですから」
言いながら、相も変わらず、道路の先を見つめるばかりのその瞳から、感情を推し量ることは難しい。
きっと、自身の死を聞かされた際にも花輪は、この通り不変なのだろう。なまえにとって、いつ訪れてもおかしくはないその瞬間を想像するのは、あまりにも易いことであった。
「死んだら、どうなるんですか?」
「どう、とは…?精神が、肉体がとか、天国地獄の話なら私には、」
「ち、違いますよ。その…遺体とか、後の処理とか、そういうのです」
「……私たちは世間から見れば、既に死んでいる身ですから、」
またそれか、となまえは目を伏せた。
花輪が時折言い聞かせてくるこの言葉が嫌いだった。何もかもを諦めろと言われているようで、そして彼にはそれがもう済んでいるようで、やるせないのだ。
なまえの気を知らない花輪は、続けて言う。
「式もせず、遺体は焼かれて…骨は…合葬墓にでも、納められるのではないですか?」
合葬墓、となまえは繰り返す。亡くなった彼女も、今は一人きりではない。それが分かっただけでも、多少なりとも救われる思いだった。
言葉の意味を確かめるように、更に二度繰り返したところで、なまえは俯いていた目をぱっと開いた。そのまま流れるように花輪へ視線を送り、口を開く。
「それって、花輪さんもですか?」
「え?…ええ、まあ…そうでしょうね」
「私も?」
「…ええ」
「あぁ、そっか……なら、安心ですね」
言いながらなまえは、ヘッドレストに頭を預けた。
胸をなで下ろした手は、拍動を続ける心臓の上へ置いたまま、わずかに上を向く視線で、フロントガラス越しの狭い夜空を覗いた。
無数に瞬いているはずの星は、一つとして見えない。すべてが作られたここでは、流れる道路照明の方がよっぽど爛々と輝いていて、綺麗に見える。
「うち捨てられるとでも、お思いでしたか?」
「いえ、そうじゃなくて…死んだら、花輪さんと一緒になれるんだなって」
「…と、言うと?」
花輪は、飛躍した言葉の意味を飲み込めていなかった。答えを急かすように、丸くなった瞳でなまえを一瞥する。
「だって、同じお墓に入れるってことですよね?」
「あぁ、なるほど…見方によっては、そうかもしれませんが…」
「だから、良かったなって。生きてるうちは、望み薄なので」
言ったなまえは、ゆっくりと目を閉じる。このまま眠りについてしまうのではないかと、そう思えるほど、実に穏やかな顔だった。
「だからって、死に急ぐのは辞めてくださいよ」
「急ぎませんよ。私…花輪さんより先に、死ぬ訳にはいきませんから」
「…何故です?」
「死を悼む人がいないと、成仏できないかも知れないじゃないですか」
「……私を慕うのが、あなただけだとでも?」
「実際、花輪さんを一番大切に想ってるのは私ですよ」
「とんだ思い違いですね」
なまえの飾らない物言いに、花輪は売り言葉で返す。彼女はそれを取り合うことはせず、また真心を返すだけだった。
「あ、でも…長いこと待たせるのは悪いので、」
長生きするのは、一日だけにします。言って、なまえは悪戯に笑う。
それを死に急ぐと言うんです、と花輪はまた売り言葉を飛ばし、なまえはまた笑みを零した。勝手に緩もうとする頬を、必死に抑える花輪とは対照に、眩しいほどの笑顔だった。
「…もし、あなたが先なら私は、」
きっと、と花輪は言い淀む。ウレタンはまた鳴き声をあげるが、なまえは何も言わない。代わりに、彼を見つめて光る瞳が、ぱちぱちと数回瞬いた。
「きっと…待たせますよ」
「いいですよ、待つのは得意です。その時は、存分に長生きしてください」
「…その言葉、」
そっくりそのままお返しします。
そう発したはずの花輪の声は、ふかされた大きなエンジン音によって攫われた。
隣の車線を走り抜けたのは、白い車体のトラックだった。
先の予測が当たったことに、なまえは気を取られる。捻くれている花輪が見せた、稀有な赤心は置いてけぼりだ。
彼も、二度と言うことはしない。ただ、不相応な自分の行いを正すように、サングラスのブリッジを指先で押し上げるのみだった。
程なくして車は、下道へのインターチェンジを緩やかに下ってゆく。
二人だけのドライブは、もうすぐ終わりを告げるのだ。そして、いつか迎える二人の始まりも、また──